見出し画像

形なき声を想うーシモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』より

シモーヌ・ヴェイユとの出会い

 先日、哲学好きな方にシモーヌ・ヴェイユについて熱く語ってしまったのだが、惹かれた理由を訊かれた際、なぜか目頭が熱くなり一瞬言葉が詰まってしまった。まるで、故人になった近しい人を思い出したかのような。本当に、彼女から影響を受けてきた部分が大きい。苛烈な程純粋な魂を持っていて、そして視線が温かいことを知ったから。

 シモーヌ・ヴェイユという哲学者の存在を知ったのは、大学2年生の時に取っていた恩師の授業に先輩の手引きでふと迷い込んできた(?)K谷さんという、当時はいわゆるホームレスだったが以前はフランス料理でシェフを務めていたりと、経歴多彩でかなりの哲学好きなおじさんから「むらっち(私のあだ名)は頭でっかちだからぜひ彼女の本を読んでみなさい」と勧められたのがきっかけだった。頭でっかち、というのは行動せずにエラソーなことを若年寄よろしく言っていたからかもしれない。もはや何については思い出せないけど、おそらく態度に表れていたのだ。彼の物言いに一瞬カチンと来たが、もう一人哲学を専攻していた先輩からも進められたのでどうにも気になり、早速彼女の名前をWikipediaで検索した。

 高等師範学校に在学し哲学をアランの下で学び、教員免許を取得した後1年間ルノー等の工場で働いた。(体が生まれつき丈夫でなく、かつかなりひどい頭痛もちだったにも関わらず)この時の肉体を酷使する体験は、「重力と恩寵」にも見出される苛烈な思想にも影響が出てきた。今考えると、K谷さんが私に勧めた理由は「どんな結果が出ても、行動し継続しなさい」というメッセージだったのではないかと思っている。

理不尽に対する=周りにある小さなシグナルを聴いて行動すること

 この本には、理不尽なこと、あるいは不幸は無理に美化しないこと。そして、今の辛い状況の中でも、少しでも幸せや善に向かう余地を探し、その方向に行くよう願い続けること、というメッセージが根底にある。「余地」は私たちが気づかないだけで、すぐ近くにあるものかもしれない。ただ、(ここにいるよ)というシグナルが小さくて、なかなか察知できないことがある。自分探しといった「試行錯誤の時期」といえるかもしれないが、存在するかも分からないことに対して注意力をどれくらい向けられるかが、その後の自身の変容、広がりにも繋がる。私が一方的ながら彼女に親近感を覚えているのは、妥協せず追い求める姿勢なのだろう。農家でインターンをしようとしていた彼女を一時的に引き取ったギュスターヴ・ティボンも、本作解題にて生活上の礼儀などに対して全く頓着しないと述懐していたが、当時の第二次世界大戦の社会情勢の渦に生きていたからこそ、権力に対する嫌悪感が根本にあった。未定型の声が簡単に潰されてしまい、人間が生ける屍になっていった姿を多く見ていたからこそ、気が遠くなるが正しいこと・喜ばしいことの小さな入り口を探し待つことが結局幸せに結びつくことなのではないかと読みながら考えていた。

 人生の方向性と呼ぶには大げさかもしれないが、日々生きる上で忘れてはいけないこととして「声なき声・あるいは本人が気づいていない未定型な叫びに耳を傾けること」を大切にして、生活していきたい。読了して、そんな風に決意することができた。まずはキャリアコンサルタントの資格を取得して、キャリアに悩む人たちと伴走していくことから始める。この話はまたの機会に。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?