名前のつかない可変的かつ恒常的な関係
テーマ的に気になっていた東京藝術大学大学美術館の展示を観に行き、上野駅をゆきかう人をテラスから眺めながら最近”友人”になった同期と2時間ぐらいZoomで話した。展示と、彼女と話したことが緩やかに繋がりそうな気がした。
まず展示について。
上の写真は、展示の一つ「再演 ―指示(インストラクション)とその手順(プロトコル)」のメインビジュアルである。ここ数十年の藝大美術科の卒業生の様々な形での作品が展示されているが、会場に設置する際の「手順書」を基にしながらも、決して作者の思惑どおりにはいかない、また創造的な文脈を秘めている。映像・絵画はもちろん、デジタルアートや中には自分が書いた論文をバクテリアに食べさせる「バイオメディアアート」もあったが、何よりも制作当時と2021年現在、展示される場所や照明、また設置するスタッフたちの采配などで微妙に印象がずれてくる「可変性」が根底にある展示だった。
一方で、バイオメディアアートのように、外的・内的な接触を受けながらもそれらしい秩序を持って安定して動く「ホメオスタシス」の側面もある。単なる社会のルールとか制度とか人工的なものではなく、バクテリアや人の動きによって動くシャボン玉(※)(デジタルアートの一つ・下記写真参照)のように、影響を与える要素も可変かつ内なるルールに基づいて活動しているものになる。
(※)ウォルフガング・ミュンヒ+古川聖/作品名「Bubbles」/2020・2021
可変・恒常性って矛盾しているようでいてそうじゃないな、とこの後の友人との会話で実感した。ちょっと業務のワーキングチームの作戦会議で二人で話したときにほぼ同い年だったことが分かり、敬語からため口に変わったばかりで、お互いの家族とかプライベートに立ち入ったいろいろな話をした。
彼女からは結婚したいとか、子どもを育てたいとか、長年付き合った彼氏と別れたためマッチングアプリでちょくちょくいろいろな相手と会っている話などを聞いて世代的に共感するところもあるが、前ほど羨ましがったり、謎の劣等感を感じるところが少なくなった気がする。シェアハウスに住み始めたり、数年前から美術館といえばインスタレーションなど現代美術を進んで見に行ったり、今日自転車前輪の空気を入れていたらねじが緩みっぱなしなのを見兼ねた向かいのおじいちゃんが助けてくれたりと、それぞれのリズムがありながらも、偶然による出会いや言葉・振る舞いなどの後で思い出す豊かさに気づき始めたからなんじゃないかと思う。
仕事だとまず相手の予定優先で、かつ求められている納期に相応のクオリティを持ってアウトプットする流れが主流だからこそ、あえてプライベートでは、はっきりしたタイトルが付けられない関係性や出来事といったものをそのまま受け入れて時間を過ごしていくとどう感じるだろうか、自分の将来的な行動にはどのような影響があるのだろうかと実験をし続けたいのかもしれない。
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