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読売巨人軍 コラム① 松井颯

巨人育成の星

5月21日、育成ドラフト出身の新人が初登板、初勝利の大金星をあげた。
育成ドラフト出身選手の初登板、初勝利という記録は、2018年の大竹耕太郎以来史上2人目、セ・リーグ史上初という大快挙であった。

その主人公の名前は、松井颯。昨年のドラフト会議で、巨人から育成ドラフト1位で指名され、5月に支配下登録されたばかりの選手である。

5回を投げて68球、被安打2、奪三振5の無失点。新人とは思えない投球内容だった。天性の度胸と才能を感じるピッチングのように思えた。『巨人育成の星』、松井颯のここまでの道のりはどのようなものだったのだろうか?

 

高校生時代

野村の控え投手

松井颯が野球を始めたのは小学2年生の時である。東京都清瀬市の野塩ファイターズで野球を始めた。その後、清瀬市立清瀬第四中学校時代は硬式野球(ポニーリーグ)の清瀬ポニーに所属し、埼玉県の強豪、花咲徳栄高校へ進学した。完全に野球エリートの路線に乗っていたのである。

名門、花咲徳栄野球部の2学年上に現広島東洋カープの高橋昂也、1学年上に現中日ドラゴンズの清水達也がいた。そして、松井にとって特別なのは、同期に現日本ハムファイターズの野村祐希がいたことである。彼はプロでは、内野手として活躍しているが、高校入学当初は松井と同じ投手のポジションであった。野村は1年からすでに先輩投手とポジション争いをしていた逸材だった。その頃の野村は、すでに身長185センチ近くあり、打っては1年秋から4番を任されていた。長打力のある野村は、2年時に夏の選手権大会優勝に貢献した。埼玉県勢初の選手権全国制覇であった。野村と松井はチームメイトでありながら、力の差は明確で、別の次元であるようだった。

チームの華々しい活躍の裏で、松井はなかなか登板機会にも恵まれず、目立った活躍はなかった。同級生のスターを眺めながらひたすら練習を続け、3年の春にようやくベンチ入りを果たした。しかし、松井に与えられた背番号は15番。背番号1番を付けたエースはもちろん野村であった。

その年の夏、第100回記念大会の甲子園に出場。大会100回目の節目、そして花咲徳栄にとっては、夏2連覇をかけた戦いだった。向かえた2回戦。花咲徳栄野球部は、現日本ハムファイターズの万波中生を擁する横浜高校と対戦した。戦いは大きく苦戦することとなった。ここでようやく松井にスポットが当たったのである。6-8と2点ビハインドの9回からの登板であった。松井は、横浜打線を見事三者凡退に抑えた。しかし、松井の健闘も虚しくチームは敗れた。彼にとっては短すぎる夏だった。


身体作りと急成長

野村が日本ハムファイターズからドラフトで2巡目指名を受け、学校中が歓喜する中、直球の平均が130km/h中盤だった松井にとってドラフトは、縁のない話だと思っていた。

そんな松井に花咲徳栄野球部の岩井隆監督は卒業式の日、声をかけた。『お前はまだ限界じゃない。だから大学でもっと頑張れよ。』最後の制服を着た彼の心にこの言葉は深く刻まれた。

高校卒業後は、首都大学野球連盟に所属する明星大学に進学。松井が在籍していた4年間は2部リーグに所属していた。また、彼が進学した学部は理工学部総合理工学科物理学系であった。

大学入学後、野球部の浜井澒丈監督は、松井の身体作りを指導した。ランニングと筋力トレーニングを徹底し、速球を投げられる身体の土台を作ったのである。その結果、体重は9kg増加し、球速はなんと13km/h伸ばすことに成功した。こうして松井は、最速154km/hを誇る右腕となった。

浜井監督はのちにインタビューで、松井の長所をこう語っている。『投球面で言えば安定して試合をつくることができるところです。精神面では継続力と自分で考えて行動するところです。言ったことのプラスアルファまでやるのが松井です』[i] プロ野球選手として必要な資質を松井はすでに備えていた。

2部リーグとはいえ、大学時代の松井は素晴らしい成績を残している。元々の制球力に速度が備わり、4シーズンで20試合に出場し、計96回の投球をみせた。そして通算6勝2敗、防御率1.41の実績を残した。

 4年生の春になってからは、先発の一角を担い、38.1回を投げ、3勝、44奪三振、防御率1.17の活躍を見せた。

ちなみに、松井の球速が13km/hも伸びた裏には、彼が物理学を専攻していたことも関係している。『感覚だけでなく、数値から打者が打ちづらい直球を模索した。「投げていて、ファウルは取れるけど空振りが取れないことが多くて。そこで回転数に興味を持った」。大学3年時からは測定器「ラプソード」を用いて、リリースポイントや回転軸を改良。最速は高校時代から実に13キロも伸びた』[ii]


明星大学時代

育成ドラフトでの指名

このように高校3年の時には、絶対無理だと諦めていたプロへの道が、数年間の努力と実績を重ね現実的なものになっていた。

しかし、迎えたドラフト会議。想像していた上位指名はおろか、支配下で松井の名が呼ばれることはなかった。その原因は、首都大学2部でしか登板経験がなかったことで、他球団が評価を上げにくかったのではと考えられている。

しかし、巨人は松井にすでに目をつけていた。そして、12球団69人の支配下指名が終わり、球団からすれば幸いなことに彼が残っていた。

そして、松井は、巨人から育成ドラフトで1位指名されたのである。このことについて球団のスカウトは、元々支配下で指名したかったものの、枠の関係で支配下は諦めたが、支配下指名が終わって、松井が残っていたのに驚いて育成で指名したと語っている。また、育成ではあるが、即戦力の選手だと評価されている。


背番号93支配下登録へ

入団してからの松井は、球団関係者が語ったようにまさに即戦力の活躍を見せた。キャンプでは2軍からスタート、イースタン・リーグで7試合に登板した。2勝1敗、防御率2・01を記録し、オープン戦では1軍の試合も経験した。

そして、2023年5月14日に支配下登録を勝ち取った。背番号は021番から93番に変更された。支配下登録されてからわずか、6日後、中日ドラゴンズ戦に、プロ初登板し、初勝利をあげる。

冒頭でも書いたように、育成ドラフト出身選手の初登板、初勝利という記録は、史上2人目、セ・リーグ史上初という大快挙であった。

その勢いのまま、同28日には阪神タイガース戦に先発し、勝利こそ収められなかったが、5回5安打1失点と好投していた。

 

野村との同級生対決へ

6月4日、松井は彼にとって特別な一戦に臨むこととなった。日本ハムファイターズとの一戦である。日本ハムには、花咲徳栄時代の同級生、野村祐希がスタメン出場していた。高校時代、チームメイトでありながら手が届かなかったあの野村である。高校時代の松井ならば、プロ野球選手同士として野村と対戦するとは考えもしなかっただろう。しかし、彼は4年の月日を経て、プロのマウンドで野村との対決を実現させたのである。

 結果は、野村の勝利に終わった。3回、2死、一、二塁の場面から野村は松井の直球をレフトスタンドに運んだ。チームも日ハムに敗北を喫した。

 

松井のプロ生活は始まったばかり

 彗星の如く現れた『巨人育成の星』、松井颯。日本ハム戦を終えた彼は、翌日5日に登録を抹消されている。野村は、高校時代の松井をこう振り返る「(松井が)Bチームにいた時も黙々と練習して、周りに流されず、ひたむきにやっていた。高校からいい球を投げていた」[iii] ひたむきに努力を重ねて進化を続けてきた松井のプロ生活はまだ始まったばかりだ。これからもきっと野球ファンを驚かせてくれるような進化を遂げて行くだろう。


[i] 『スポーツ報知』2023年5月14日
[ii] 『スポーツ報知』2023年1月21日
[iii] 『読売新聞オンライン』2023年6月5日


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