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御馳走帳について

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突然、出かけるのが不自由な世界になってしまいました。出かけないと美味しい料理を出すお店に行けません。いつか行けるだろうと云う楽観的な気持ちと、お店がなくなってしまってもう行けないのじゃないかと云う不安な気持ちがいつも僕の中でせめぎ合っています。

出かけられないのなら自分で作れば良いではないかと申されますが、それ程のスキルも器用さも持ち合わせておりません。それでも少しでも僕が今まで経験した「あんな味やこんな味」に近付けようと奮闘努力しております。その甲斐はあるのだろうか。でもやるんだよ。

今までに何度もあちこちに書き散らかしていますが、僕は子供の頃は極度の偏食児童でした。ご飯と海苔と醤油だけあれば良いと思っていた子供でした。父親が昭和一桁生まれで太平洋戦争を経験しております。終戦前も終戦後も食料の調達が非常に困難でそれこそサツマイモの葉と茎くらいしか食べるものがなかった時期もあったそうです。その反動で父親は緑色の食べ物を受け付けなくなって、必然的に我が家の食卓にも野菜が並ばないこととなります。幼稚園まではお弁当でしたから僕は野菜に出会うことがありませんでしたが、小学校に入学すると給食と云う難敵と遭遇しました。出されたモノを食べなければならない。それが何であるか、見たことも食べたこともない料理。僕がどう思おうがそれを問答無用で食べなければならない。それから僕の地獄のような日々が始まりました。5年生の途中まで、食べられなかった給食が机の上に置いたままで昼休みに校庭にも行けず、5時限目、長い時は6時限目まで給食を眼前にして過ごさなければなりませんでした。僕も今と違って主張がはっきりとして意思の強い人間でしたから(今はどうなんだろう)徹底的に抗戦して「食べたくないモノは食べない」を貫き通しました。よくやった小野瀬雅生。褒めてあげたい。

それが小学校5年の後半に転校することとなり、行った先の学校では給食はビュッフェ状態の食べ放題システム。嫌いなモノは誰かにあげても良いし残しても良い。好きなモノが余っていたらそれを食べてオーケー。当時の僕には地獄から天国。あまりの天国さ加減に6年生になる前に声変わりしちゃったくらい(あまり関係ないか)。転校と云ってもとても遠いところでなく引っ越し前の家からも徒歩で行けるくらいのところだったのですが、この厳然たる差は一体何であろうかと子供心に「巡り合わせの妙」を深く感じさせることとなりました。

さあ給食で「食べなければならない」の呪縛が解けると同時に、食べる事への自然な興味が芽吹いて来ました。トマトケチャップが食べられるならトマトも食べられるのではないかとか、雑な千切りキャベツはイヤだけどキャベツの味噌汁は意外にウマかったとか、一つ一つクリアして(克服ではない)成長して参りました。そんなもんですよね。

最後まで僕の前に立ちはだかった強大なる敵は納豆と卵。卵はオムレツなら好いけど茹で玉子はダメと云う細かい規定に基づいて参りました。そのラスボスも50歳を過ぎてから見事に退治して現在では何と好き嫌いのない人間になることが出来ました。おめでとうございます。この辺りの細かいお話もいつか詳しくさせてください。

ふと気が付くと世の中には食べ物の好き嫌いがある人がとても多いことに気が付きました。キュウリがダメ、ナスがダメ、チーズがダメ、ネギがダメ、アレルギーなどで食べられないのではなくてただキライ。どうしてもキライ。僕が子供の頃の気持ちが少し判るでしょ、それ。そのダメなヤツを目の前にずっと置かれるんですよ、何時間も。毎日毎日来る日も来る日も。キライであることを責めません。キライなものを押し付けるのがキライなんです。食べ物だけでなく自分の意見を偉そうに押し付けるヤツがキライです。これだけは子供の頃から一貫してキライです。この好き嫌いは一生治りません。

話が脱線しましたが、僕が好きなモノをどれだけ好きなのかをお伝えするのがワタシの使命であると勝手に思い込んでこれからの日々を過ごそうと思います。スキのパワーはきっと大きい。大きくて強い。食べることも音楽も(演るのと聴くのと両方)野球も特撮も色々もっともっとスキスキスーでいようと思います。サボらないように心します。よろしくお願い致します。

(2020/05/04 追記:一人称を「僕」に書き換えました)

末永くがんばりますのでご支援よろしくお願い致します♫