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おでんの怪

 きん、と刺さるような寒さが江戸の街に降りそそぐ、2月の暮れのこと。

 庄吉が幼なじみの藤次郎の長屋を訪ねてきたのは、窓から差し込む夕闇が畳を赤く染め始める七つ時だった。

「おでんが人を化かすことがあるか、だぁ?」

 藤次郎はあっけに取られて、土間にのっそりと立つ相手の顔を見た。

 冗談か、と一瞬思うが、目の前の、もう齢二十五になろうかという無精髭を生やした男は、真剣な顔で自分を見つめている。

 日当りの悪い長屋の軒先は、すでに相手の顔が見えないほどに暗い。訪れたばかりの夜が、薄い着物を羽織っただけの身体をしんしんと冷やす。庄吉は寒さも気にならないほど急いているのか、迎え入れられるなり、土間につったったまま、そんな馬鹿げた質問を藤次郎に投げかけたのだった。

 庄吉は大真面目な顔で言った。

「出るんだよ、おでんの怪が。夢に」

 庄吉の話はこうだ。

 半月ほど前から、庄吉は夜な夜な同じ夢を繰り返し見るようになった。それが、おでんの具が物の怪に化けて、自分を襲う夢だと言うのだ。

「夢の中で、おいらは提灯さげて夜道を歩いている。すると向こうから、ひょっこりひょっこり、幾人かの男たちが歩いてくる。暗くて顔は見えねぇ。黄色の半纏を着て、この寒いのに、腕をにょっきりと突き出してる。なんでぇ、不思議な集団だと思いながら近づいたらよ」

 庄吉はそこで言葉を切り、大事だ、と言わんばかりに藤次郎に顔を近づけた。

「なんと!先頭に立つ奴の首から上が、真っ白でふわっふわの、巨大なはんぺんなんだよ!」

 自分で言ってその時の怖さを思い出したのか、とたんに庄吉の顔がさっと青ざめる。

「おいらは驚いて腰を抜かす。そうすると、後ろからそいつの仲間が次々と顔を出す。ちくわぶ、こんにゃく、大根。みんな、頭がおでんの具なんでぇ。おいらはすっかり肝っ玉ひやして声が出ねぇ。そうしてるうちによ、先頭のはんぺんおばけがすーっと手を伸ばして、おいらの顔を、こう、ぬるんと撫で上げるんだ。そいでおいらは思わずぎゃーっと」

 眉根をこわばらせて、まるで生きるか死ぬかの瀬戸際のような切羽詰まった声を出す。

「叫んだ自分の声で目が覚めるってぇ、こういう寸法なんだよ」

「なんでえ、下手な怪談かよ。真面目に聞いて損したぜ」

 藤次郎はあきれる。

 藤次郎は育ての親である祖母が死んでから、17歳でさる高名な史学者に弟子入りした。

 学問の道に入ったのは遅かったが、今ではすっかり信頼され、弟子頭として師の多くの仕事を手伝う。本来ならば師の家に間借りしても良いぐらいの間柄なのだが、他人と暮らすのが苦手な藤次郎は、師の家からほど近い長屋を借りてそこから通っている。実入りの少ない職業故に暮らしはきついが、それでも藤次郎は、学問的な思索を深めてくれる、一人の時間を愛した。

 幼馴染みの庄吉が、嫌でも邪魔をしにくる時以外は。

「そんなこと言うなよ!おれは真剣なんだ!」庄吉は今度は顔を真っ赤にして怒り出す。

「そんな夢でもよ、毎晩毎晩続いちゃあ、目覚めが悪いったらありゃしねぇ。それに、はんぺん妖怪の手で撫であげられる感触といったら……」

 ぬるっと生暖かくて、本物のはんぺんみたいなんだ。

 藤次郎は、汁気をたっぷり含んだはんぺんで頬をひたひたと撫でられるのを想像して、思わず顔をしかめた。

「どうだ、想像したらおいらの気持ち、少しは分かったか?」

「全然わからねぇよ」

 藤次郎は突き放すように言った。

 おでんが人を襲うなんて、聞いたこともない。これまでに読んだ資料の中にも、妖怪や民族伝承についての本は多数あったが、おでんの妖怪についての記述など、一度も見た事はなかった。

 第一これは庄吉の夢の中の話なのだ。この男のとっぴな想像に付き合っていたら、人生百年あっても足りはしない。

「ほら、お前の見せてくれた古本の中にも、おどろおどろしいのが居ただろう?あの、お化けが行列作ってやってくるやつさ」

「百鬼夜行絵巻か」

 たしかに、おでんの具の種類は数えきれないほどある。昔ながらの江戸田楽から、最近流行りの関西流まで。古今東西の具をかき集めたら、百鬼夜行よろしく、行列が作れるだろう。

「って言ってもなぁ。あれに出てくるのは、古くなった琴やら鍋やらの妖怪だぜ。それか、畜生か」

 百鬼夜行絵巻に登場するのは、古道具が年月を経て妖怪化した付喪神か、もしくは動物の化身であって、食べ物ではない。第一、人間に愛される食べ物が、人を化かすだろうか。

「前に見せてもらった時は、死んだ犬やら猫やらが妖怪に化けて出るなんて、可愛いもんだ、あいつら人間みてぇだなと思ったが、いざ実際に自分が遭ってみると、怖いな」と庄吉は人の話も聞かずにとんちんかんな事を言う。

「俺は史学の専門家であって、妖怪には詳しくねぇんだ。くだらねぇこと言ってねぇで、ちったぁ働け、バカ」

 そう言って藤次郎は庄吉を一蹴した。

「いつまでも独り身でその日暮らしじゃ、いつおっ死ぬかもしれねぇんだぞ。貧乏長屋で誰にも看取られずに死ぬなんて、それこそ夢にも見たくねぇや」

「お前が来るじゃないか。十日に一回は」

 庄吉の長屋は藤次郎の長屋から徒歩数分のところにある。

 藤次郎が引っ越してすぐ、庄吉も藤次郎を追うようにして近くに居を移した。

 互いに早くに親をなくし、天涯孤独の身だ。藤次郎の祖母が生きている頃は、一時期、庄吉は藤次郎の家に身を寄せた事もある。そのせいか、いい歳になってすら、藤次郎は庄吉のことを弟のように思う気持ちが抜けない。

 実際のところ、幼い頃に近所の子どもらと喧嘩になった時には、体格のよい庄吉のほうが必ず藤次郎をかばっていたのだが、17の頃に藤次郎が庄吉の背丈を追い越し、見下ろす側になってからは、藤次郎はその時のことなどすっかり忘れている。

 賃料は同じぐらいのはずなのに、庄吉の長屋は藤次郎のそれと比べてみすぼらしい。雨どいは傾いているし、生け垣は削げ放題だ。おまけに庄吉がずぼらなため、部屋の中も散らかり放題である。

 それでも不思議と居心地が良いのは、ひとえに、日当たりのおかげだ、と藤次郎は思う。

 南からの日差しを昼間にたっぷりと吸い込んだ畳は、夜も心なしかあたたかく、藤次郎は平然と片付いた、けれども寒々しい自分の長屋よりも、庄吉の部屋のほうを好んだ。

「俺だけじゃないだろう」

 明るくお調子者の庄吉は町内でも人望が厚く、長屋を訪ねる人間も多い。性格には似合わぬ目鼻立ちのくっきりとした美貌に、うっかり岡惚れする女も後を絶たない。長屋のばあさんが一人身の庄吉に気を遣い、縁談を持ちかけることも最近はあるようだ。まあ実際は、ばあさんが庄吉を訪ねる口実に、ありもしない縁談をでっちあげているともっぱらの噂だが。

そんな周囲の心配をよそに、庄吉は相変わらず、気が向いた時に仕事をし、晴れたら出かけて雨が降れば休み、風が吹いたら慌てて桶屋を始めて儲かるのを待つような、そんな、人間として破綻した暮らしをもう何年も続けている。

「おでんなぁ。夢に出なきゃぁ良いんだよ。おいらはおでんの具ならなんでも好きだからな」

 庄吉は藤次郎の言う事など聞いてはおらず、好き勝手にひとりごちる。

 庄吉の食道楽に付き合い、少ない給賃の中から大枚叩いて月に2度ほど贅沢をするのが、藤次郎の楽しみの一つだった。贅沢と言っても、芸者屋や高級料亭の暖簾はとてもくぐれない。だが、江戸の町はめまぐるしい。西から東から、新しい食べ物が次々に流れ込み、あちらこちらに人気の店が出来ては消える。話題の店に出かけては、あの味はどうだこうだと語り合い、仲間うちで評伝するのが二人のもっぱらの楽しみ方だった。

 食べることが生き甲斐なだけあって、庄吉が伝え聞かせる食い物の話は微に入り細に入り、まるで実物が目に見えるようだと聞く人を面白がらせる。庄吉が話題にした店は、しばらくすると人気が出て、行列のできる店となることもある。本人も、それをやや誇りに思っているらしかった。

 しかし。

 生活に窮することは無いにしろ、互いに実入りの少ない仕事柄だ。こいつも良い歳をして、結婚の準備に取っておくにしろ、身なりを整えるにしろ、他の事に使えばいいのに、と思うが、庄吉は女遊びよりも賭け事よりも、たまの藤次郎との外食に有り金を使っているようだった。

 他に誘いが無い訳でもないだろうに。 

 藤次郎は、五歳の頃から同じ釜の飯を喰う仲だった庄吉が、昔も今も変わらず自分との付き合いに時間と金を割いてくれることに安心する。

 けれどそれはいつか終わるのだ。庄吉はいつ嫁をもらってもおかしくないし、自分にも縁談がないわけではない。そう思うと、言いようのない気持ちが突き上げてきて、藤次郎は珍しく、自分から庄吉を飲みに誘った。

 藤次郎の家から一町ほど歩いた先にある、2人の行きつけの屋台を目指す。凍り付きそうな2月の冷気の中、五分も歩けば手も足の先もぽろりと取れそうなほどにかじかむ。それでも、通りの角を曲がり、薄闇の路地の上にぽつんと浮かぶ赤い提灯を見ると、それだけで身体の温度が上がる気がするから不思議だ。

 暖簾をはらりとくぐると、白い湯気がふわりと顔にまとわりつく。あたたかい空気で、みるみるうちに肺が満たされる。外の厳しい冷気も、この赤い幕の内側までは入ってこない。

藤次郎が、長椅子を跨いだ瞬間。

「ぎゃあああ」

 半歩遅れて暖簾をくぐった庄吉の叫び声が耳のすぐ近くで聞こえて、藤次郎は思わず肝を潰しそうになった。

「うるせえなお前は、いったいなんでぇ?!」

 道ばたにひっくりかえり、震える庄吉。口をあわあわと動かしながら、屋台の上を指差す。目の前では、おでんの具のみっしりと詰まった大きな鍋が、もうもうと湯気を立てて煮えていた。

「うちもはじめたんですよ。おでん」

 並んだ皿の後ろから、つるりと剥げた頭の店主がひょっこり顔を出す。

「お客さんに、はんぺん入りのおでんはないかって、よく聞かれるもんでねぇ」

 はんぺんの由来は元禄元年に遡る。

 当時、駿河の料理人半兵衛が、魚のすり身に山芋を混ぜた練り物を開発した。それは開発した本人の名前にあやかって「はんべえ」と名付けられ、いつしかなまって「はんぺん」となった。それまで練り物といえば、硬く身の締まったものが主流だったが、練る段階でしっかりと空気を含ませ、ふわふわに仕立てたはんぺんは、子供から老人まで、またたくまに大人気となり、江戸に伝わったのだった。

 それまでのおでんといえば、汁気を切った煮こんにゃくに味噌を塗ったものや、煮玉子などを串に刺して出す形式が一般的だったが、はんぺんが具として人気を博してからは、出汁に浸したまま鍋に入れて客に出す店が急増し、おでんは食べ歩きのおやつとして以外にも、飲み屋でこうして提供される主菜となった。

「お、お、おでん…こいつらどこまでもついてきやがる。おい藤次郎、店変えようぜ」

「なんだってぇ、うちのおでんが食べられないってのかい?」

 店主の後ろから、こめかみに梅干しを貼っつけた、皺だらけの女将が嗄れ声で怒鳴る。

 藤次郎は相変わらず尻もちをついて震えている庄吉を見てため息をついた。

「庄吉、見ないようにしろ。俺は寒いから、遠くの店には行きたくねぇ。こんな店でも、雪だるまになるよかマシだよ」

 こんな店とはなんだい、とお玉を持ったまま目を釣り上げる女将をよそに、庄吉は涙目で頷いた。

 二人並んで熱燗を傾ける。徳利のすきっとした白さに、辛口の酒の切れ味がよく似合う。

 見ないように、と言われたものの、みっしりと鍋にならんで良いにおいをさせている、大好物を見ないようにするのは、庄吉にとっては至難の技だった。

 ぐつぐつと中火で煮られた黄金色の練り物たちが、気泡と共にぽこんと踊る。そのたびに、かつおぶしのふんわりとした出汁の匂いがはじけて、庄吉の鼻孔をくすぐる。

「お化けは怖いが、見てると食いたくなるなぁ。」

 さっきまでの涙目はどこへやら、庄吉は鼻の穴を膨らませて、勝手に二皿ぶんを頼んだ。

「結局、食うのかよ」

「お前も食うだろ」

 食欲の逸れないうちに、すぐに出てくるのがおでんの良いところだ。ほかほかと立ち上る湯気に頬を赤くしながら、箸の間でぷるぷるとふるえる具に庄吉は夢中でかぶりつく。じゅわっと口内に溢れたあつあつの出汁が、冷えた身体に沁みわたる。

 決して育ちは良くないはずなのに、犬食いでもなぜか下品に見えないのがこの男の不思議なところだ。

 庄吉の口の中に、ふっくらとやわらかそうなはんぺんが吸い込まれてゆく。その温かい白さは、暗がりで見る人の肌を思わせる。

 口元から、汁がぼたぼたと垂れる。

「きたねぇな、ゆっくり食えよ」

 そう言いつつも、藤次郎は庄吉の好きな具を、自分の皿から分けてやる。

 店の軒先にかかげられた、提灯から漏れるぼんやりとした赤い灯が、暖簾からはみ出た二人の背を、ちらちらと降り始めた雪から守るように包んでいた。


 数日後の早朝。

 戸を叩く音で起こされた寝ぼけ眼の藤次郎が、のっそりと玄関から顔を突き出すと、庄吉がにかにか笑いながら突っ立っていた。この前とは、うってかわって血色がよさそうだ。

「なんだよ、朝っぱらから。また妖怪の夢でも見たのか」と言うと、

 庄吉は嬉しそうに

「妖怪の正体がわかったんだ」と、懐に手を入れた。

 そのとたん。

 いきなり、何やら白い物体が、藤次郎の顔をめがけて庄吉の懐から飛びだして来た。

 顔に、ぬるんと生暖かいなにかが貼り付く。

 妖怪のことを考えていた藤次郎は、本当に化けて出たのかと、思わずぎゃっと声をあげる。

 必死で引きはがすと、

「猫じゃねぇか」

 藤次郎の手にぶらさがっているのは、真っ白な毛並みに覆われた若い猫だった。

 この辺りの猫にしてはふくよかで、ぽんぽんと丸く胴の張った、威勢のいい体格をしている。

 綿のようなふかふかとした毛並みが、実際の身幅よりも一回り大きく見せている。

 この猫、どこかで見た覚えがある。しかし、思い出せない。

 首を捻る藤次郎に、庄吉はある店の名前を告げた。

「ああ!あのおでん屋の…!」

「お田幸」は二つ離れた町にある、おでんの名店だ。食道楽の間では人気があり、寒い日には必ずと言っていいほど行列ができている。

おでん好きとあっては一度は食べねばなるまいと、庄吉は藤次郎を引き連れて、ひと月ほど前に訪れたのだった。

そのおでん屋の軒先で、藤次郎は確かにこの猫を見た気がする。

しかし、それがなぜ、今、ここにいるのか。

「夢の元はこいつだよ」と庄吉はフクさんを見下ろす。

「昨晩も、おでんのやつが夢に出て来てよう。おいらウンウンうなされてたんだ。いよいよ、先頭のはんぺんのやつが手を伸ばして、顔に触れてくる。今日こそこいつの正体をつきとめてやろうと思って、手が触れるか触れないかで、夢中ではんぺん野郎の手をひっつかんだんだ。その瞬間、ぱっと目が覚めた。そしたらよう。なんとこいつが、俺の顔の上に、乗ってたんだよ。器用にも四つ足で」

庄吉の寝ている間に、この猫はどこからか庄吉の長屋に忍び込んで、こっそり枕元に立っていたらしい。

猫の身体からは、鼻の鈍い藤次郎にもすぐに分かるくらい、かぐわしいおでんの出汁の匂いがぷんぷん香っていた。

「はぁ、じゃあお前は、このおでんの匂いのする猫に枕元に立たれて、毎夜おでんの夢を見てたっていうのか?」

はんぺん妖怪の手の正体は、顔の上を歩く、猫の肉球の感触ではないだろうか、と庄吉は言う。

たしかに、やわやわとした猫の肉球は練り物の感触と似ていると言えなくもない。

しかし、そんな冗談みたいなことがあろうか。

藤次郎はだまって猫を見下ろす。

猫はすっかり庄吉になついた様子で、足もとで毛をふくらませている。真っ白でふわふわした毛並みを見ていると、まんまるであたたかい、はんぺんに見えてくる。やわらかな毛の隙間から、湯気がたちのぼりそうだ。こんなのに毎晩枕元に立たれたら、そりゃあおでんの夢の一つも見るだろう。

「届けにいこうぜ。御礼に、一食タダにしてくれるかもしれない」

毎晩顔を踏まれていたにも関わらず、庄吉は怒る様子もなく、それどころかすぐに調子のいい事を考えている。

五町ほど歩いて、お田幸のある飲食街に着いた。この辺りは名店街で、立派な石畳の広い通りが、長々と遠くまで続いている。

名店らしい、堂々としたお田幸の店構えは、遠くからでも目立った。

店を囲う立派な椿の生け垣の前に、赤い着物を来た女が立っていた。小さな顎の、黒目がちな女だ。女は庄吉と猫の姿を見るなり、あっと叫んで表情を変えた。まるで、待っていたものと、予期せぬものが同時に来たような、驚きと喜びに満ちた顔だ。

女はお多岐と名乗った。この店の一人娘だ。そういえば、この前食べに来た時も、狭い店の廊下をせわしなく走り回る、若い女がいたような気がする。

「フクさんを届けてくださったのですね」

この白い猫は、フクというらしい。見た目通りの名前だ。

「猫を嫌うお客様がいらっしゃるので、その方が来る時は、店の間だけ、フクさんを外に放しているんです。

けど、最近は朝まで帰ってこないことが多くて。

あんなに遠くまで、でかけていたのですね」

お多岐は料理屋の娘の割には美しい言葉で話す。母親の躾が良いのだろう。赤い着物から覗く白いうなじは、すっきりとして冬の黒い生垣によく映えた。

「フクさんは気に入った人間の枕元に立つのが好きなんですよ」とお多岐は笑う。

「私も朝起きると、枕元でじーっと見つめられていて、驚く事があります」

庄吉がフクのことを覚えていたのには、もうひとつ理由があった。

帰りしな、藤次郎が厠へ行くのを待つ間、庄吉は店の軒下にいた、フクの首輪につけられた鈴が取れているのを発見した。庄吉は代わりに、自分の根付けの紐をはずして、フクの首輪に結んでやったのだ。

フクの真っ白な毛並みに、赤い江戸紐がちらちらと見え隠れしている。赤い蝶が止まったようで可愛らしい。

「首の鈴が取れちまったからってよ、そんなもん結ぶこたねぇだろが」

「だってよう、白い毛並みによく似合うとおもったんだ。色白の美人には赤だろう」

庄吉はそう言うと、でへへと笑ってフクを撫でる。

普段はささくれだらけの畳の部屋に住み、歯をすいた爪楊枝をそのへんに転がしているようなやつなのに、庄吉は時おり思いがけなく洒落たことを言うのだ。その洒落っけをたまさか目にした女どもに、たちまち熱を上げられる。

けれど相手に好意を告げられたところで、その頃には自分の言った事などすっかり忘れているものだから、いつもぽかんとしている。

庄吉はそんな男なのだ。

「お前、はるばる五町も越えてうちに来るなんて、よっぽどおいらのことが好きなんだなぁ」

庄吉は藤次郎の思案など、まったく気にする様子も無く、けらけら笑いながらフクをじゃらしている。お多岐が横で、それを嬉しそうに見ている。

けれど。

離れた町に住むフクが、はるばる庄吉の枕元に忍び込みにやってきたのは、決して偶然ではないことを、藤次郎は知っている。

数日前、ふとした用事で庄吉の長屋の裏を通り過ぎた時。

赤い着物を着た女が、真っ白な猫を庄吉の長屋の裏で放すのを、藤次郎は目撃していたのだ。

顔は見えなかったが、女の着物の、塗り椀の内側のような上品な朱色は、庄吉の貧乏長屋の、葉の削げて黒ずんだ生け垣によく生えた。

(わざわざ店から出すだけなら、なんでここまで連れてくる必要がある)

着物に負けないぐらいに頬を真っ赤に染めて、庄吉を見上げるお多岐を見ながら、

(女も猫も、知らぬ顔して他人の懐に忍び込むのが得意だからな)

と、藤次郎はしかめ面で、石畳の上に落ちた、赤い椿の花を蹴った。


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