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親っていっつもデッカイ幼児

1月24日
母の肺の摘出手術が終わる。「家族の方は術後に立ち会って摘出部位を絶対に見てください」と言われ、取り出した肺の一部を見る。大きめのチキン・ステーキくらい。肺の下葉と言われるT10とT9という部位の摘出なのでそんなに大きく切り取ったわけではない。
病室の母は完全に子供と化している。人間、人に世話を焼いてもらうようになると退行するのだろうか。

カーテンを吹き抜けるような甘やかな声で話す。普段は眉間にシワを寄せて、険しいはずの顔が、まるっとして、目を見開いたところなんかは5歳児のようだ。この人こんな可愛らしい顔していたっけ、と思う。いつも私を怒鳴りつけていた鬼のような顔の母しか記憶にない。69歳になって、こういう顔をするようになるのなら、なぜもっと幼い私に向けて、そうしてくれなかったの、という思いが潮のように押し寄せてきてたまらなくなる。そうしている間にも母は手術痕が痛いわあ、だの、喉が渇いた、だの、苦痛を訴えてくる。リップクリームを塗り、看護師さんにそれを伝えてやる。
母はしきりにありがとう、ありがとうと繰り返す。「来てくれて助かったわあ、大事な一人娘が」と嬉しそう。願わくばあんたの一人娘になんかなりたくなかったし今もそうでありたくない、と思うけど、それを言っても仕方がないので言えずに黙る。散々酷いことしておいて……と思い、そう口に出すと、何言ってるのよ〜、と笑顔、母は多分「私が(母に)酷いことをしておいて」と言っていると勘違いしている。この人は一生、自分のやったことは反省しないだろう。そう思うと、何もする気が無くなる。
母が死んだら悲しいだろうか、とふと思う。絶対悲しくないと思う。祖母が死んだ時もそうだった。ああ、死んでくれて助かった、解放された、という思い。
けど、天涯孤独にはなりたくない。母が死ぬまでには自分の人生をしっかり作ろう、と思う。祖母が死んだ時に、”ああ私は結婚しよう”と強く思ったように。人の死が人生の起爆剤になることもある。

ありがとうございます。