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今日のエウレカ#7 “病んでなきゃ、書けない”?

先日、取材に行ったゲイバーで、同席した人から、

「病んでなきゃ、文章なんて書けないでしょ?」と言われた。

本当にそうだろうか?

個人的な経験から言うと、これはもう、病んでいない時の方が確実に文章は書ける。

モノを書くという行為は半分以上が技術だ。配管工事とか、プログラミングと同じだ。

病んでる配管工が上手にペンチを使えるとも思えないし、プログラマが病んでたら頭がぼうっとして正確にプログラムを書けないだろう。

だから、モノを書いているときはできるだけ心が安定しているほうがいい。気分が良く、朗らかなときのほうが、あきらかに筆が進む。

毎朝、7時くらいには起きて、7時半には本郷三丁目のスターバックスの窓際の席にいる。

この時間が一番好きだ。

店内には人もまばらで、窓から見える景色はまだ薄暗く車もあまり通らず情報量が少ない。

外部刺激のない状態で、黙々と書ける。窓の外の景色を吸収して心はりんと冴え、道路の上の白線とおなじくらい混じりけのない状態に、自分の内部がだんだんと変化してゆく。

病んでいる人に、書くと言う行為は必要かもしれないが、

書くためには病んでいる必要があるわけではない。

また、病んでいるからといって書けるわけでもない。

書くためには、自分の「病み」を俯瞰する能力が必要だ。

どうやって他者と共有できるか。人が面白いと思う形にするか。

病みを俯瞰できる能力があるということは、半分くらい「病まない」ことを意味しているから、

病みを俯瞰し続けるうちに、少しずつ病まなくなってゆく。

書くことに病気を癒す作用があるとしたらそのためだと思う。

病んでいないと、文章なんて書けない、は嘘だ。

ただ、病みを俯瞰するためには、孤独が必要だと思う。

わいわいがやがやとにぎやかな状態で、病みを静かに俯瞰することは難しい。

だから、書くためには孤独でかつ正常な状態に自分をいかに持って行くかが重要だ。

孤独と、病みと、正常な状態。

その3つをグルグル回ることが、文章を書くという行為なのだと思う。

あくまで、個人の意見だけど。

駅のホームも、静かに心を見つめて文章を書くのには適している。

ありがとうございます。