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今日の原稿ここまで書けた ボツにした小説の下書き①

小説のボツ原稿をここに載せていきます。禁無断転載

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 慶應義塾大学の第138回卒業式はあいにくの曇天だった。ざまあみろ、と僕はひとりごちた。そうしたところで、気分はまったく晴れないにせよ。

 学長は卒業の送辞で計4回も「希望のない時代」と言いやがった。「ええ、我が国はあ、未曾有の震災を経てぇ、今、希望の見えない時代に突入しましたぁ。このぉ、混沌とした世界においてぇ、皆さんはぁ、かつて経験したことのない困難にぃ、立ち向かうことを迫られていますぅ。皆さんこそがぁ、この希望なき世の中のぉ、新たなともしびとなるべくぅ、未来を切り開いてぇ」……自分の生きている時代に希望がないなんて言うのは、自分の人生に期待できなくなった老人だけだ、バカヤロー。そう胸の中で毒づきながら、僕は卒業式が行なわれている大講堂の分厚い革張りのドアをローファーの踵で蹴っ飛ばした。……というのは僕の妄想で、本当は、しぃんと静まり返っている会場の空気を壊さないよう、できるだけそうっとそうっと、音を立てないようにして出てきたんだけど、でも万が一、そうしたところで、だれのメーワクにもいならなかったんじゃないかと思うのだ。講堂中にぎゅうぎゅうに詰め込まれた卒業生たちは、みな、熱心に学長の話を聞くふりをして、その実、だぁれも聞いちゃあいないんだ。「偉い人の話は聞かなくて良い」っていうのが、義務教育プラス4年間、足掛け16年間の間に僕たちが学ぶ、最も重要な真理なのだから。もっとも「聞いてるフリの上手いやつが、世の中で最も重宝される」っていうのも同時に学ぶべき大事なことで、それを4年間のうちに身につけられるかどうかは、各学生の裁量に任されているのだけど。

 ドアを開けて出てく瞬間、ちらり、と振り返って僕は講堂中を見渡した。大量の黒い頭と黒いスーツ、それから、赤やピンクの華やかな袴に身を包んだ女子学生たち。みな下を向いて規則正しく並べられたパイプ椅子にギョーギよく座り、学長の話を聞いているふりをしながら、その実、手のひらに隠し持ったスマホの中でのおしゃべりに忙しい。握りしめた薄い板の中で、チャット・アプリのメッセージを示す無数の黄緑色のシャボン玉が飛び交っているはずだ。もしも今、この場を飛び交う電子信号の中身を全部固形にしてバラまいたら、大講堂じゅうをたちまち埋め尽くしちまうはずだ。皆本当は雄弁なのだ。今は出荷される直前の羊みたいにしおらしく、学長のつまらない話を聞いてるふりしてるけど。

 卒業式を終えたばかりの講堂前は、前の回に出席した袴やスーツ姿の学生たちで埋め尽くされていた。

 こんなに肌寒い天気にも関わらず、みな頬を紅潮させわぁわぁと嬉しそうだ。そのうち雨が降り始めて、戯れる学生たちの頭の上を銀の水滴が覆った。顔に触れる冷たい雫を気にもせずに学生たちは騒ぎ続けている。駅へと続く並木路でも、駅前の広場でも、灰色のくたびれたスーツの群れを女子学生たちの袴の華やかな色が圧倒していた。まるでブロックゲームみたいだ。降水予報の天気図みたいに上空から東京を見たら、赤やピンクの点々がわらわらわらと東京じゅうを侵食しているだろう。

「24」という映画がある。その映画では、特殊なスカウターを通すと、人の残りの人生の時間が、デジタルの数字でその人の頭の上に浮かんで見えるという設定なのだが、今日限りは僕の目にも、特殊なスカウターがあるみたいだ。群れながら歩いてく学生たちの頭の上に、文字が見える。内定アリ。内定アリ。人気企業に内定アリ。アリ。アリ。みーんな、内定アリばっかり。曇天にとけ込むような地味な色のスーツの群れは、後ろから見れば誰が誰だかも区別はつかないのに、顔を見れば、肌の張り具合や笑顔の明るさで、その人間の将来のランキングが如実に分かるような気がした。

 僕の頭の上には、たぶん、何の文字も浮かんでない。

 駅のホームで電車を待つ間、ひやりとした感触を足首に感じて下を見たら、隣の人の傘からしたたった雨水が、履きつぶしたローファーのヘリから入り込み、靴下を濡らしていた。

「卒業」がおめでたいのは、次の行き先が決まっている人間、だけなんじゃないのかなぁ。

 もちろんぼくだって、なにもせずに指を咥えていたわけじゃない。別に僕は、就活の仕組みをおためごかしだとか、非人間的だからやめるべき、だなんてまったく思っちゃいない。僕だって皆と同じように、一通りは試してみたのだ。一昨年のかなり早い時期から、まるでベルトコンベアに乗せられたウサギになった気分で、同級生たちの勧めにしたがってスーツを買い、あくせく書類の提出をしたり、説明会に参加したりなんかしていたんだ。ただ…なんていうかなあ。いざ、スーツを着、カバンの中にたっぷり資料を用意して、面接会場である光り輝く巨大ビルに飛び込もうとすると、なぜだか急に…本当になぜだかわからないけど、僕の足は地面に吸い付いて、ぴったりと動かなくなってしまうんだ。まるで見えない交通整備人が、ぼくの目の前に立ちはだかり、黄色い立ち入り禁止のテープを張り巡らし、ここから先は入っちゃいけないとでも言っているような気がして、だから僕は、面接の時間になっても会社のビルの周りを、RPGゲームのダンジョンで、入り口のわからない塔に入ろうとする時みたいにぐるぐると何周も歩いたあげく、天まで届きそうなビルのつやめくファサードを眺めるだけ眺めた後に、つい回れ右をして帰ってきてしまうのだった。級友たちには「天気が良かったから面接を受けるのがバカらしくなって、日比谷公園で昼寝しちゃったんだ」なんてすっとぼけた言い訳を披露してはいたが、しかしその実、内心では冷や汗をかいていた。

 ベルトコンベアに一度乗ったのなら、目をつぶって、しまいまで乗り切ってしまえばよいだけなのは分かっている。しかし、僕にとっての悩みは、どうしてそうなってしまうのか、自分でもまるきりわからないということなのだ。だからこそ僕は今日というこの日、4年間の努力の成果が結実していてしかるべきこの日に、内定もなく、傘もなく、黒い履き潰したローファーと着古したアオキの29800円のスーツ、それだけを身につけ、行く場もなく冷たい雨に打たれている。

 渋谷に出る銀色の電車の中は、これから卒業式の打ち上げに向かう若者たちの身体から発される熱気と、外套から雨粒が蒸発する湿気で白く蒸れていた。春の、獣じみた匂い、人々の体臭が濃くなる一歩手前の、次の季節への期待に満ちた匂いが、この、多くの若者たちを乗せた車両じゅうに漂っていた。 ぼくはこの匂いが好きじゃなかった。

 友達にLINEを一通だけ送る。ツイッターは見ない。どうせ現実と一緒だ。赤とかピンクの華やかな袴姿の写真が、うじゃうじゃとスマホの画面を埋め尽くしているにきまってる。今日ぐらいは目立っていいでしょ、とばかりに。私たち、これから新社会人として、おとなしく、外の世界に出荷されてゆくんだから。

 蛇行する雨粒が銀のカーテンのように電車の窓を覆い、外の景色を遮っていた。代わりに僕は電車の中の乗客たちを眺める。皆一様に、マスクをしてスマホをいじっている。老人も大人も子供も、下を向き、隣り合う他人の視線を避けるように、今ここにいる自分は偽物で、大事な関係はこの、四角い薄い板の中にしかないのだと、周囲に対して主張するように。

 中目黒で電車は急行と接続した。僕は急ぎたくなかったから、鈍行に乗り続けることにした。電車は空き、僕は6人掛けのシートの端に座った。向かい側のシートは6人中6人全員が老人で、2人は居眠りをし、4人はスマホをいじっていた。

 僕はふと、この電車はどこにも着かないんじゃないかと思った。

(続く)

ありがとうございます。