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行列に並べて喜ぶ店

慈げん、というかき氷店がある。
埼玉、最寄りは熊谷駅。さらにバスに乗って龍谷寺前で降り、店に向かう。
最後の角を曲がるとき、常に胸が苦しくなる。
今日は冬だ。だからと言って気は抜けない。いったいどのくらい行列だろうか。(注:かき氷店です)

店の前に行列がない。奇跡だ。しかし、それは「臨時休業」「早仕舞い」の危険と隣り合わせを意味する。
いっそう焦りながら店に向かう。
営業している。行列がない。なんて僥倖だ。しかししかし、まだ気は抜けない。
ネットで見たあのメニューはあるだろうか。店の中に入る。
あった。だからと言って安心はできない。注文前にメニューがくるりとひっくり返り品切れになってしまうことがあるからだ。
はやる気持ちを抑え、メニューをしっかり見ると、開店時にはなかったメニューが発見される。ゴクリ。
どうしよう。食べられても3杯までだ。(慈げんの氷は特別で、簡単に2〜3杯食べられる)。
しかし、次に来たらもうないかもしれない。いや、確実にないだろう。2週間あけるとあった試しがないもの。
だからと言って、食べたことのあるメニューもまた食べたい。何度でも食べたい。追加注文は不可だ。いま、全てを決めてしまわなければならない。
苦悶すること3分。店員さんに注文を告げる。
やっと一息ついて、これからの至福の時を思う。
これが、行列なく、スルリと入れた時の慈げん。

店の外の角まで戻ろう。
この角を曲がると慈げんが見える。
…すごい行列だ。
ゴクリ。もしかして、「営業終了」の看板が最後尾に置かれているのではないだろうか。
ほんの20mの間、Twitterで「慈げんの業務連絡」を更新しまくる。大丈夫だ、特に早仕舞い情報はない。
震えながら最後尾を見る。営業しているのを確認する。喜びを噛み締めて列の後ろに並ぶ。

ひとり、ふたり、さんにん…これなら1時間半から2時間といったところか。
ああ、早く注文したい。お目当てのかき氷は売り切れてやしまいか…。
ネットで「慈げん」を検索しまくり、いま中にいる人の情報を探す。
まだ大丈夫。ありそうだ。

そして、たいてい店主が人数確認に来る。
元気そうだ。よかった。神さまありがとう。
店主がいつも体調悪め。
ゆえに、この店での挨拶は「体調どうですか」。帰る時は「お大事に」と言うのが定石だ。店主の体調が悪いと、店が臨時休業したり、メニューが少なくなったりするので、人としても心配だが、己の欲望としても心配なのだ。
だから元気だと心の中で静かに天に感謝を捧げる。神さまほんとうにほんとうにありがとう。わたしに1日でも長く、慈げんの氷を食べさせてください。
(しかし、いまだ絶好調なことはないので、みなハラハラと見守っている。悪くない時はあった)

時々、自分の後ろで早仕舞いするのを見ると、行列に並ばせてもらえたことに感謝する。
冬でも11時半オープンで、14時や15時に早仕舞いすることはよくある。真夏などはオープン前に1日の整理券がなくなったり。

慈げんのメニューは奇天烈である。
わさびフロマージュ
生卵黄が乗ったプティング
ケーキの形をしたクリスマスC型
キャラメルミルク焼きパイン
じゃがいもコーン
アボカドみるく抹茶かけ
和三盆レモンにホットトマト
あんプレッソ(あんことエスプレッソ)
ザ・カレー

名前だけ聞くと困惑するが、いざ食べるとストンとハラ落ちする。とんでもなくよくまとまった美味しさなのだ。
いままで、なぜこれがなかったのかしら? 小首をかしげたくなる自然さなのだ。
これは、食べないとわからない。
だから客は、冬でも震えながら行列に並びかき氷を食べる。

さらに厄介なことに、いちごや抹茶と言ったさほど美味しくなりようがないメニューもやたらと旨いのだ。

氷の削りが美しい。
シロップが美味しい。
たたずまいも素晴らしい。
ミルクやシロップと氷のバランスが絶妙。

そしてかき氷として最も大切なこと。
「氷が美味しい」のである。
瑞々しく沢の湧き水のように喉を潤していく。食後感はベタつかない。絡まない。余韻があり、あっという間に滑り落ちていく。朝露のようである。つるりん。

ゆえに客は、店主が作る法則性のないメニュー(あるのかもしれないが凡人には分からない)に一喜一憂する。目当てのものがなくても大丈夫。なにか食べたいものには出会える。そして、旨さと寒さに震える。

店主が元気でかき氷を作ってくださる。そしてそれを食べられる。
その幸せにどっぷりはまり、行列もなんのその、帰り道は「次にいつ来られるかな」と手帳を眺めながら歩く。

いやこれ、フィクションじゃありません。そんな店が本当にあるんですよ。

プティング