春はすぐそこに

東京の新宿三丁目。3月とはいえ夜になると、まだ寒さが身にしみる。足早に無表情で歩く人たちに紛れていると、ふと心に浮かぶ店がある。

せわしない街の一角に、大きな世界堂ビル。横手にある狭くて暗い階段を降りると、『西尾さん』という居酒屋に行き当たる。

 ほとんどの場合、階段を降りる前に「ごめんなさい。今夜の西尾さん 満席です。ここまでありがとうございました」という紙が貼られている。西尾さんは知る人ぞ知る隠れ家居酒屋。同時に、知る人は知っている「異様に予約の取れない店」。1ヶ月2ヶ月は当たり前。下手をすると季節が変わるまで席がない。

 それをくぐり抜け、幸運にも店に入れた人がはじめに見るのは、たった一人で16席を切り盛りする、細身でダンディーな店主(西尾さん)。そして、入り口と同じ味のある字で書かれたたくさんの張り紙たち。

「お通しサラダ300円は食べても食べなくてもよいです 食べたい方は 自分でお椀に盛って お好みのドレッシングでどうぞ バカ喰いはできませんが ほどよくおかわりして下さい」「自分のより高い傘を持って帰るのはやめよう」「お料理、お酒 遅くて、ごめんなさい」「しぞーかおでん スイマセン…自分で取って お会計の時○○本食べました 自己申告です どれでも1本130円」

 暖かいことばの洪水に、すっかり穏やかな気持ちになった客は、セルフ式で注文を紙に書いて渡し、お通しや「しぞーかおでん(静岡おでん)」を盛りに行く。おでんの上にだし粉をかけるのがしぞーかスタイルだ。

 入店10分。西尾さんが「お待たせしました」と飲み物を置いてくれる。一口ゴクリ。冷たい。旨い。おでんをかじる。暖かい。旨い。なんともすべてが「まあいいか」という気持ちになる。外の凍るような寒さや、嫌な上司やツレない彼女や、明日までに仕上げなければいけない難題や。一切合切が、まあいいかと思える。美味しいんである。暖かいんである。幸せなんである。

食べると言うことが、こんなに素敵なことだったのかと思えるんである。

味は旨い。ここでしか食べられないものもある。値段も安い。その上、店内に流れる何ともいえない「楽しい空気」が心を満たす。

そしてまた、予約をしてしまう。西尾さんが唯一無二の店である理由。それは行って、しぞーかおでんにだし粉をかけてかじらないと分からない。

今、たくさんの情報が氾濫している。地球の裏側から、予約の取れない店まで、幾多の写真や体験談があふれている。しかし。フレームの外に360度広がる大パノラマや、人いきれ、気温、匂い。この世には、ことばでは拾いきれないものがたくさんある。西尾さんは、それを忘れちゃいけないと教えてくれる。

新宿三丁目。せわしない街の足元に、西尾さんがあると思うと、街の空気がほんの少しほぐれる。
春はもうすぐそこまできている。

#同時日記 #おでん

shop information
西尾さん
03-3358-6625
東京都新宿区新宿3-1-32
新宿ビル3号 B1F

『居酒屋「西尾さん」のぬくもり酒 なぜ、古びた小さなお店に予約が殺到するのか』
西尾尚/著、光文社刊、173P