消極的好きと積極的好き

100分de名著ディスタンクシオン2回目も面白かった 自分の考えでは何かを好きになるのは大きく分けて「消極的好き」「積極的好き」があると思う ブルデューの言う好きの定義「Aが好きなのはBじゃないから」は消極的好きだと思う 「他と比較しなくともただAが好き」という積極的好きもあると思う

(自分で自覚してる範囲での)自分が鬼滅を好きな主たる理由は「嗜虐的じゃないから」という消極的好きだけど、ビョークを好きなのは「誰とも違いすぎて比較不能な唯一無二性があるから」という積極的好きだなと思う そして前者は代替する存在が他にあり得るけど、後者は代替が存在しえない

もしAを「歌が上手いから(下手じゃないから)」という消極的な理由で好きなら、もっと歌が上手い人を見つけた時そっちに鞍替えすると思う でも「Aが好きなのはAだから」という積極的理由だと、鞍替え不可能でAが居なくなったらその席は永久欠番になる

音楽家の新垣隆さんや料理人のイナダシュンスケさんは「闘争」が無い方々で、サブカルもハイカルも愛でてらっしゃる 「Aであるほどに(Bでないほど)良い」という価値観だけではなく「Aでないほどに(Bなほど)良い」という矛盾する価値観とも共生してる感じ そこに複雑さと豊穣さを感じる(告白)

「Aが好きなのはBじゃないから」という嫌悪に基づく好きは、A以外一切認めんぞ!みたいな排他的な価値観に陥りやすく、自分の世界を狭く細くしていく感じがある そうすると当然その価値観を理解してくれる人は少なくなり、選民意識は強まりますます排他的になるという悪循環

でもそれによって「Aは神」みたいないわば信仰みたいな境地になると、不純物を一切取り除いた純度100%のAだけによる世界が爆誕する AもBも良い、という闘争なき価値観では決して生まれてこない世界 その意味でいろんな好きが存在した方が世界は豊穣にはなると思う

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