森鴎外『舞姫』考察:二人はどのようにして付き合い始めたのか?

(【閲覧注意】女性の人権問題にかかわる事柄に触れています。そういう時代があったということから考察する上で必要なため、ご容赦願います)

本作品は、豊太郎とエリスの恋愛の物語とみなされています。しかし、そのわりには二人が付き合いだした経緯がはっきりしません。
よくある説明は、父親の葬式代がなくて泣いていたエリスに偶然出会った豊太郎が同情してお金を用意してあげたことから恋愛が始まった、というものです。それでは、きっかけしか述べていません。
この記事では、次の段階へ行くために二人に何があったかを考察します。既存の解釈に左右されずに色眼鏡なしで作品に何が書かれているかを見ることに加えて、さらに作品の時代背景も考慮します。

⬛考察を始める前の注意
この作品を理解のする上で注意すべきことがあります。それは、作品の内容は主人公である豊太郎の書いた手記だということです(一部を除く)。そのため、思い出補正がかかって脚色されていたり、意図的に何かを隠して書かなかったりする可能性があるということです。
書いてあることを手がかりにして、深読みする必要があります。

⬛経緯の整理
まず二人の最初の頃を時間の流れの順に整理します。

豊太郎はエリスのために父親の葬式代を出す

後日、エリスが礼をしに豊太郎の部屋に来る
↓←ここに説明がない
頻繁に合うようになる(※)
 どこで会っていたか説明なし
豊太郎は、
 ・エリスに本を貸した
 ・エリスから手紙を何通ももらった
  ただし、どんな手紙かの説明なし
 ・先生と生徒のような関係だと説明
 ・清い関係だと説明

なんの経過の説明もなく、いきなり頻繁に合うようになっています。ここからは何も分かりません。

※抜粋
「この恩を謝せんとて、自ら我が僑居に来し少女は、シヨオペンハウエルを右にし、シルレルを左にして、終日兀坐する我が読書の窓下に、一輪の名花を咲かせてけり。この時を初めとして、余と少女との交はり漸く繁くなりもて行きて」

⬛何が隠れているのか?

少し先に行って、付き合いだしてからエリスとの関係に変化が訪れる場面に着目します。それは、免官になったことをエリスに話す場面です。

抜粋
「余は彼が身の事に関りしを包み隠しぬれど、彼は余に向ひて母にはこれを秘め玉へと云ひぬ。こは母の余が学資を失ひしを知りて余を疎んぜんを恐れてなり。」

収入がなくなったと知ったらエリスの母は豊太郎を遠ざけるだろうとエリスが恐れている、と豊太郎は書いています。
つまり、

エリスの母親は豊太郎をエリスへの金の提供者であるとみなしている、と豊太郎自身が思っている

ということです。
葬式代を出したあとでも、まだ、お金の関係が続いていたということです。

エリスの職業である舞姫について、豊太郎は一般論として、その収入だけでは自身の生計さえ立てるのが困難であると書いています。エリスの父が亡くなり収入が減ったことでエリスとその母は生計が成り立たなくなったことは十分ありえることです。

そこで、豊太郎がエリスに資金援助していたと考えられます。

この関係は、はたからみたらどう見えるでしょう?その理解の鍵もまたエリスが舞姫だということにあります。

抜粋
「されど詩人ハツクレンデルが当世の奴隷といひし如く、はかなきは舞姫の身の上なり。薄き給金にて繋がれ、昼の温習、夜の舞台と緊しく使はれ、芝居の化粧部屋に入りてこそ紅粉をも粧ひ、美しき衣をも纏へ、場外にてはひとり身の衣食も足らず勝なれば、親腹からを養ふものはその辛苦奈何ぞや。されば彼等の仲間にて、賤しき限りなる業に堕ちぬは稀なりとぞいふなる。」

ここで「賎(いや)しき限りなる業」とは体を売ることでしょう(補足2参照)。

当時の舞姫のおかれた一般的な状況からいえば、豊太郎は金で女(ここではエリス)を買っていたと見えます。そして、エリスの母も、当時の事情からすれば豊太郎が(女を金で買う意味での)パトロンになったと見ていたはずです。エリスの母としては、金がない者を娘と合わせるのは無駄であり別のパトロンを探さないといけないと考えるはずです。

⬛なぜ手記から隠したか?

以上の推論によって導いたことの正しさを確かめるため、手記に書かれないだけの理由に該当するかの検証が必要です。

豊太郎は幼い頃から母の教えに従って育ち、品行方正な人物でした。大学では友人の相沢に品行方正を褒められたとも書かれています。(行為をしているかどうかは別にしても)金で女を買うことは、品行方正な道から外れた恥ずべきことだと考えたでしょう。

そう考えた背景には、豊太郎が父を早くに亡くし母親だけに育てられた影響があるでしょう。普通の人よりも女性関係に対して非常に潔癖であったと考えられます。

これらが理由となって手記には書かず隠したと考えられます。

⬛中間結論
推理により、つじつまの合う次の結論が得られました:
 豊太郎はパトロンとしてエリスとの関係を始めた。

⬛再検証

今までの検討を前提にして、もう一度以下の部分を読み直すと二人の心情が見えてきます。

抜粋
余は彼が身の事に関りしを包み隠しぬれど、彼は余に向ひて母にはこれを秘め玉へと云ひぬ。こは母の余が学資を失ひしを知りて余を疎んぜんを恐れてなり。

この場面は、収入がなくなりパトロンを続けられなくなったことを豊太郎がエリスに告げる場面だったということになります。それに対して、エリスは豊太郎を見限らなかった。母に疎まれるのを心配しエリスが黙っておけと言ったことを言い換えると、金がなくても豊太郎との関係を続けたい、ということです。
豊太郎からしたら、お金でなく豊太郎自身を見て離れたくないとエリスから告白されたということになります。豊太郎は天にも昇る気持ちで舞い上がってしまったことでしょう。この時、豊太郎はエリスと離れられない仲になったと書いています。免官となり母もなくなり、職も地位も両親もいない、そんなどん底を異国の地で味わっている状況において、エリスからそんな告白をされた時の豊太郎の気持ちを思えば、離れられない仲になったことは、確かに致し方ないことだったと思えます。

この時点で二人はついに相思相愛になったといえます。
考察終了...とするのは、まだ早い。

ここで忘れてはいけないのは、豊太郎は受動的で弱い心の持ち主だということです。エリスに告白されたことでエリスの気持ちに応えるように行動してしまった可能性があるのです。ただ、少なくともエリスは相思相愛になれたと思ったことでしょう。

この二人の温度差は、のちのち二人の関係に大きな影響を与えることになるのですが、本記事の目的からははずれるので、ここで終了とします。

⬛補足1 当時の風俗
作品発表当時の読者はベルリンの文化や風俗に詳しいはずがありません。バレエさえまだ日本には来ていません。そのため二人の関係を日本の風俗に置き換えて理解していたと思われます。

おそらく、エリスを町芸者とみなし、豊太郎をその客や旦那のような関係で二人を見ていたことでしょう。

⬛補足2 当時のバレエ
同じ時代にドガが描いた絵画「舞台の踊り子」(1877年)の解説を調べて見ると興味深いことが分かります。場所はベルリンではありませんが、踊り子たちは貧しさのため体を売り、劇場が売春斡旋の場となっていたというのです。
「オペラ座 売春」でネット検索すると色々とヒットします。