森鴎外『舞姫』の考察: 主人公 太田豊太郎はエリスを捨てたのではない
なぜ主人公の豊太郎は自分を罪人と考え、また相沢を憎む心が生じ、日本へ帰る途上にあったのか?この記事では、これらについて原文に書かれていることを整理・分析し理由を推定します。
この作品は作者の森鴎外の実体験が基に書かれており、主人公と森鴎外を重ねた見方をされがちだが、ここでは純粋に作品自体に向かい合います。
⬛状況整理: エリスの決意と豊太郎の思い
豊太郎がロシアにいたときにエリスから受け取った手紙(※1)について語る場面を基にまずは状況を整理します。
※1「否、君を思ふ心の深き底(そこひ)をば今ぞ知りぬる。
~略~
今はひたすら君がベルリンに帰りたまはん日を待つのみ。」
(1)エリスは、豊太郎がここベルリンで良い職を得られるなら私の愛でつなぎ止めるのに、といっておきながら(2)の決意をした。つまり良い職を得るのは難しい、と考えていたといえる。※2
(2)エリスは、母と口論し母を置いていってでも日本に行く決意をし母を説得した。
(3)エリスは、豊太郎だけ先に日本に帰って豊太郎の出世を待つことも考えた。が、豊太郎のロシア行きで離れて過ごす日々が辛いため離れて過ごすのはもう無理と考えていた。
(4)エリスは、上記(1)(2)(3)を手紙で豊太郎に伝えた。
(5)豊太郎はこの手紙を見て天方大臣を頼って本国へ復帰できる道が有望であると気がついた。さらに、相沢にエリスとの関係を断つと約束したのは軽率だったと思った。つまり、エリスを日本へ連れていくことを否定していないといえる。
(※2 豊太郎が免官になったときには豊太郎自身では職を見つけられていない。相沢のおかげで、「日本」の新聞社の通信員の職を得たに過ぎない。)
この状況において、天方大臣から一緒に帰国しないかと誘われたとき、この地に係累はないと相沢から聞いたと天方大臣が言ったことに対して豊太郎は訂正しなかった。一緒に帰国する意思だけを伝えた。そこから、豊太郎が過去いつも行っていた「返事したことが実行困難であっても我慢して実行する」状態に豊太郎は陥った。
一方で、エリスからは手紙にて一緒に日本に行く決意をもらっていて、(5)から豊太郎もエリスを捨てたいとは思っていないといえます。
⬛豊太郎はなぜ自分を罪人だと考えたのか?
豊太郎は天方大臣に一緒に帰国すると返事した帰りに自分を罪人(※3)だと考えたていた。何の罪なのか?
※3「我が脳中にはただただ我は許すべからぬ罪人なりと思ふ心のみ満ち満ちたりき。」
豊太郎は、それまでの手記で明らかにしてきたように「弱き心」の持ち主です。天方大臣に懇願して前言を撤回しエリス同行の費用をお願いするための行動を起こす「勇気」はありません。ですから、我慢して自分でなんとかする方法をとろうとします。そのため、エリスを一緒に日本へ連れてはいけないという結論にいたったはずです。
となると、上記(3)の出世するまでは離れて暮らしエリスを待たせる、ことをしなければならなくなります。
その場合、エリスには離ればなれで暮らす辛さを味わわせることになります。出産にも立ち会えないだろうし、エリスが望むように子に太田姓を名乗らせること(※4)も当分できません。それらのことから自分が「罪人」だと考えた、と推定できます。
※4「産れたらむ日には君が正しき心にて、よもあだし名をばなのらせたまはじ。」
⬛豊太郎はなぜ相沢を憎むか?
相沢は、豊太郎がエリスとの関係を断つと話したところまでしか豊太郎とエリスの関係を知りません。相沢がエリスと話したときには、豊太郎はエリスとの関係を断って帰国するとエリスに伝えたはずです。エリスとの関係をつなぐ(3)をダメにしてしまった。そこに、相沢を憎む心が芽生えた、と推定できます。
●補足 相沢は公務で忙しいという舞台設定
豊太郎がエリスから決意の手紙を受けとったのはロシアに行っていたとき。このロシア行きにあたっては、忙しい相沢とは会っておらず天方大臣から出発前日に急に聞かされたことが書かれています。つまり、忙しい相沢とは会っていないか、あるはろくに会話する機会が持てない状況が続いていたと推定できます。ここに悲劇が起きた理由のひとつがあります。
⬛豊太郎はなぜ日本に帰ったか?
豊太郎は(1)のように良い職がなく、十分な収入が得られていません。精神を病んだエリスは働けないのでエリス分の収入は減り、逆に治療費が必要となり、さらに子どもの養育費の支出が増え、このままでは生計が成り立たなくなることは目にみえています。そこで、大臣とともに帰国してよい職にありつくことで十分な収入を得ればエリスたちを経済的に支えられると考えた、と推定できます。
このことから、豊太郎にとって日本へ帰国する目的は、「エリスを捨てること」でもなければ「国や家のために帰国すること」でもなく、エリスたちが生きていくために帰国すること、だといえます。それが感情的には辛い選択であったとしても選択せざるを得ない状況に追い込まれていました。
●補足 外国人を嫁とする結婚について
当時は外国人との結婚なんてとんでもないと考えられた時代だからエリスを日本に連れていけない、との意見を良く見かけます。
しかし、森鴎外の研究者による過去の研究によりそのことはすでに否定されています。
外国人を妻とし結婚するためには国の許可を得る必要はあったものの可能でした。また、留学先で女ができてしまい連れてくるという事例は実際にいくつもあったそうです。
豊太郎の場合には、父母がすでになくなっています。豊太郎は就職すると母を呼び寄せて(※5)、日本を出るときは母しか気にしていない(※6)ので二人暮らしだった可能性が高く、父母のいない彼は、結婚相手選びに家の制約なく自由にできる、と考えていたことでしょう。
※5「某省に出仕して、故郷なる母を都に呼び迎へ、楽しき年を送ること三年ばかり」
※6「五十を越えし母に別るるをもさまで悲しとは思はず」