Why なぜ/知覚 補足

■『生態学的視覚論―ヒトの知覚世界を探る』 1979(翻訳1985)J.J. ギブソンギブソンは概念的・物理学的な世界ではなく、動物にとっての環境を記述することを徹底した。そこで描かれたのは、動物が知覚と行為によって能動的に環境と関わっていく豊かな世界観である。科学的な是非は判断すべくもないが、それまでの心と身体を分け機械のように動物を捉える凍った世界観よりも、人と環境がダイナミックに関わりあう生命力にあふれた世界観を支持したい。また、凍った世界を抜けだした視点は建築をより自由で豊かにするように思われる。『直接知覚とは、包囲光配列から情報を得る活動である。これを私は、見回す、歩きまわる、見つめるなどの探索活動を含む情報抽出の過程とよぶ。これは、どのようなものであれ、視神経入力から情報を得るという仮定
された活動とは全く別物である。』(ギブソン) ギブソンは視知覚に関する実験によって、知覚が受動的な入力に対応する反応や反射ではなく、能動的な活動であって、直接的に知覚する、ということを示した。

■『知の生態学的転回3 倫理: 人類のアフォーダンス』 2013 河野哲也 他
『本巻の寄稿者たちは、それぞれの分野において、社会や文化の領域にエコロジカル・アプローチを適用することに関心を持ってきた。そこでは次のような問題意識が共有されている。すなわち、人間の相互行為を、アフォーダンスに満ちた環境を共同で形成してゆく行為として理解し、人同士、人と人工的システムとの相互作用の生成・発達過程を明らかにすること。コミュニケーションを、状況に埋め込まれた身体的な循環過程としてとらえ、規約的なコミュニケーション活動を、身体的相互作用から延長された新しいアフォーダンスの生成、あるいは、身体的アフォーダンスの再配置として理解しようとすること。本巻は、これまで萌芽的・散発的にとどまっていた社会的アフォーダンスに関する研究を総合し、生態学的アプローチに立った人間関係論、コミュニケーション論、記号論、社会学、文化論を構築しようとするものである。』(河野哲也)
河野氏は世界を変転し続ける「ウェザー・ワールド」とし、そこでの倫理的命題を「本人が自己維持のためのレジリエンスを持ちうるような一群のケイパビリティを形成すること」であると定義した。ケイパビリティは生き方の幅、レジリエンスは回復力を意味する。要するに、どうなるかわからない世界で本人が生きていくために、能動的に関われる可能性を多様に用意してあげることが倫理である、ということだろう。これは建築のアフォーダンスが倫理的でありうることを示している。
また、第 章では自閉症スペクトラム(アスペルガー症候群)の当事者でもある著者(綾屋紗月)の自らの知覚特性とのつきあい方を発見していく体験が描かれている。それは、それまで規範や常識によって押えられていた知覚に素直うようになるに従ってアフォーダンスを発見・再配置していく過程とも言えると思う。それによって俯瞰できる自己感が生まれ他者とつながり始めたという事実は、アフォーダンスの発見と配置が自己のリアリティに関わることを示しているのではないだろうか。

■『アフォーダンスの心理学―生態心理学への道』 199(翻訳2000)エドワード・S. リード
この本では進化・行動・価値や意味・社会や文化・言語や思考といった動物・ヒトが生きることに関する問題が次々に描かれる。そこには一貫して<個体と世界/ 環境との切り結び>という考えが中心にありブレない。いや、ブレずにそれらを描ききり科学的な基盤となり得ることを示すことこそが本書の目的であった。
<意味>と<価値>は環境内にある外的なものであって心の中の内的なものではない。
<意味>はアフォーダンスを特定する情報であり、その探索的活動・知覚の動機となる。
<価値>とは情報によって利用可能となった<意味>を実際に利用した結果として得られるもので、遂行的活動・行動の動機となる。
動物はアフォーダンスを意識し行為するために<意味>と<価値>を求めるのである。また、ヒトなどの社会的動物はその意味と価値を共有することが可能となり、集団で意味と価値を求める。そうした動機づけの集団化は文化と技術と言える。それらもまた新しい選択圧を受け洗練されうる。
この本の価値は、ギブソンの理論を人間を取り巻く、そういった特殊な環境まで拡張するアイデアを提出したことにある。
人間の際立った特徴は、社会性を持つことによって、集団的に生きるための意味と価値を求めることが可能となった(文化と技術)ことと、さらに環境を改変することによって、それらを場所や道具、言語や観念、習慣等によって定着・保存しつつ、環境に合わせて調整し続けられるようになったことにあるだろう。
それをギブソンの理論を引き継ぎ豊かに展開した。これは集団としての人間の営みを、個人や時間、空間を超えて共有可能なものとして建築に埋め込むことで、建築が人類の歴史の文脈を支える重要な一要素となりうることを示している。

■『経験のための戦い―情報の生態学から社会哲学へ』 199(翻訳2010)エドワード・S. リード
『(行動の動機となるような)行動に付随しておこる積極的あるいは消極的な感じは、孤立した内的状態ではなく世界を経験することの一部なのである。』『ごく普通に何かをすること-料理、庭いじり、裁縫、建築、音楽、スポーツ[…] これらの活動は(フロイトによる)妨げられた性交などではなくて、環境と触れ合うありふれた方法であり、そのままで楽しみなのである。』
『すべての人間の経験には、ごく単純なそぞろ歩きから複雑極まりない技術的熟練に至るまで、限りない可能性がある。したがって経験のもっとも重要な面である希望は、主観的感情ではなく、世界とわれわれの出会いの客観的特性なのだ。』(リード)
この本ではデューイの哲学を引きながら直接経験の必要性が説かれるなかで経験の喜びや希望について描かれる。そこでは、知覚・経験が喜びや希望に直接的に結びつくものであることが示される。また、その感情は人間の心を支配する動機などではなく、経験に内在するものである。

■世界とのつながり 2002 オノケンブログ
『僕の実家は屋久島にありますが、屋久島に帰るといつも海と山の見渡せる丘に登り、ボーっとすることにしています。そこで感じたことが、僕の建築を考える上でのひとつの原点になっています。
月並みな表現ですが、そこでは、何もかも忘れることができます。世界の広さを感じ、自分の存在の小ささを感じます。同時に、自分と世界との境界も曖昧に感じます。次の項でも述べますが、世界そのものが自分であるような感覚になります。そして、冷静に自分を見つめることができます。』(太田)
私にとって屋久島は一つの原風景であり、そこで感じたことが一つのベースとなっている。そのことを自分なりに理解しようとしてきた中で生態学は一つの道筋を示してくれたように思う。

■私と空間と想像力 2002 オノケンブログ『「私のいる空間が私である」( ノエル・アルノー) 自己と世界との関係は、はるか昔から人間にとって主要なテーマでありつづけました。普段私たちは、こういう事は考えることもなく私は私で世界は別にあるもの、と感じていると思います。しかし、音楽の世界に浸っているとき、大自然に包まれているときなど、何か自分の世界が広がり、世界と一体になったような感覚は誰でも感じたことがあると思います。』(太田)
アルノーの一文はギブソンがデカルト的心身二元論を否定し、動物が生きていく視点から環境を描いたことと重なるように思う。この時は想像力という言葉で考えていたが、それは想像というよりは環境の中にある意味や価値に対して知覚を開いていくという生態学的態度のことだったのかもしれない。

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