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おいしい素材 ~それがそれであること

人間は対象の配置(レイアウト)だけでなく、その面の持つ特質(肌理)からも生きていくために必要な情報を抽出する。

それは例えばそれがどのような物質で構成されているのか、硬いのか柔らかいのか、曲げられるのか、壊れるのか、伸ばせるのか、上に乗れるのか、食べられるのか、光の状態はどうか、などであり、その情報がさまざまな性質を特定し、それがただそれであることを知覚させる。

その、それがそれであること、いうなればモノの固有性は、生きていくための環境を特定するために欠かすことのできない要素であり、おそらくそのことがある種の悦びと結びつき、物への愛着や豊かさを感じさせるように思う。

これは例えば禅の思想にある、主客の分離を超え、あらゆるものを否定し尽くしてもなお残る「個」というものに近い。

道元は「山是山(山は山ではない、山である)と言ったそうだ。

観念としての「山」ではなく目の前のそれがそれであるところの山を感じることが悟りの感覚である、というようなことだろうか。

これは固有性の知覚に生きることの悦びが内在していることと関連があるように思われる。

一方、現在のものづくりの現場を見渡せば大量生産による工業製品に覆われている。工業製品の理念は多くのものを同じ品質で生産することにあり、そこでは固有性のようなものは注意深く取り払われている。

これまで純粋な実感として、工業製品の多くは人々の気持ちを受け止める力が弱い、と感じていたのだが、この文脈で言えば、環境を特定する情報・固有性に乏しいため、リアリティを伴う知覚とその悦びに結びつきにくい、と言えそうである。とすれば、先の実感も単なる思い込みではないのかもしれない。

また、固有性は社会性とも結びつく。柄谷行人によれば、社会性とは内面化されない他者との対話の間にうまれるものである。固有性とは内面化されない外部にあるものの性質であるから、社会性をうむ対話の基盤となりうる。

ここでは対話を知覚と置き換えることができるだろうし、固有性は知覚の公共性の基盤でもあるように思う。

すなわち、ものの固有性、それがそれであることは知覚の悦びや社会性の基盤となり、そのように知覚される素材がおいしい素材といえるだろう。

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