内外の行き来を支えるつながりの場 『つながりの作法 同じでもなく 違うでもなく』(綾屋 紗月, 熊谷 晋一郎)
以前読んだ、著者のお二方の話がとても面白くて、だいぶ前に購入していたもの。気が向いたので読んでみた。
■オノケン│太田則宏建築事務所 » B176 『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』
■オノケン│太田則宏建築事務所 » B186 『知の生態学的転回3 倫理: 人類のアフォーダンス』
人それぞれの困難さ
今、3人の息子の子育て中なのだけど、面白いくらい3人とも性格が違う。
彼らはそれぞれ彼らなりの壁にぶつかっている・ぶつかっていくのだろうけれども、その彼らなりの困難さを理解することの難しさを日々感じている。
「自分だったらこうするのに」「こうすればもっと楽に生きられるのに」と思ってしまうけれども、その「こうすれば」が彼らの困難さを和らげるものなのかどうかは自分には分からない。
自分とは違う人間だから、と、これまで生きていた自分の哲学(とまではいえないような自分なりのやり方)に反するような方法で手を差し伸べてみたら、かえって困難さを深めてしまった、というようなこともあった。
そんな中、どこで見たかは忘れてしまったけれども、ADHDの人が自分のことを描いたある漫画を見て、こういう視点もあるのか、と思ったのだけど、本書の内容はその時感じたことにとても近かった。
研究の論理
先の漫画を見て感じたのはまさにこういうことだった。
ADHDというある種の困難を抱えた人が必要としているのは、(その困難さがゆえに)本人ができること、というよりは、治療や援助のように外部から手を差し伸べることのほうだろう。と漠然とイメージしていた。
だけど、その漫画の主人公(著者)は自分の特性を把握し、それをできるだけコントロールしようと試行錯誤しながら、その人なりのやりかたで、困難さを和らげようとしていて、そこの大きな可能性のようなものが見えた気がした。
もちろん、うまくいくこともいかないこともあるんだろうけれども、自分を知るということが大きな力になりうるんだな、と感じた。
それは、いろいろな試行錯誤を繰り返し、自分の外(自分のいる社会や環境がどういうところか)と自分の内(自分はどういうひとか)の輪郭と接点を描き出しながら、自分自身のマニュアルをデザインしていくようなことかもしれない。
(自分も自分自身のマニュアルをつくりながら生きてきた、という実感がある。)
適度なつながり
また、その試行錯誤を繰り返すには、差異を認め合いつつ何かを共有し会えるような適度なつながり、もしくは、つながれる場が必要なんだろう。(たぶん、それは直接的な人とのつながりに限らず、社会やモノとのつながりも含むと思う。)
適度なつながりの場がなくては自分の外に出たり、内に入ったりといったことは難しくなる。そして、外に投げ出されたままでも、内にこもったままでも、試行錯誤のサイクルは回らないし、自身のマニュアルはなかなか更新されない。
子どもたちのことを考えると「自分とは違う彼らの困難さを理解すること」はやはり難しい。それでも、自分ができることは何かを問うとき、残るのは「外に出たり、内に入ったり」を支えるつながりの場の一つになることくらいしかないのかもしれないな。
(「自分のマニュアルをつくってみるといいよ」と言ったら、「それ、あんたのマニュアルにのってんの?」って聞き返されそうだけど。正解なんてどうせないんだから、とりあえずデザインしてみる、ってくらいでいいんじゃないだろうか。)
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