おいしい生活 補足

■『知の生態学的転回3 倫理: 人類のアフォーダンス』 2013 河野哲也 他
『ギブソンは決して倫理や道徳について多くを語らなかったが、彼の描く肯定的世界観はそれ自体、特定の価値判断を前提としている意味で倫理的といえるだろう。だからこそ、このポジティブなギブソン的世界を「正しい」と認めることは、とりわけ科学者と同じ視点からその理論的妥当性を検証し得ない者にとって、実証的科学的判断というよりも、むしろ「そのように世界をみなすべし」という倫理的決断だとさえ言える。このように私たちが日常生活において無意識に前提としていた肯定的世界観に言葉を与え、環境のうちに意味を探索しながら行為を組織する喜びを鮮やかに描き出した点にこそ、ギブソンやエドワード・リードの著作が、自然科学の枠を超えた古典たりうる理由があるはずだ。』
『筆者が提示する「行為の可能性の増大」はリードが言う意味での経験=学習となる。リードに従い「生きること」そのものを学習のプロセスとみなすならば、「行為可能性の拡大」を望ましいとする規範性は、まさに「生きる」ということそのものに内在しているといえるだろう。』(柳澤田実)
ギブソンの世界観が「そのように世界をみなすべし」という倫理的決断であるならば、生活は環境の可能性に向き合うことの意志のようなものであろう。生態学は生活に内在する「生きること」に光を当てるが、その根拠としての強さと、それにふさわしい生命感も合わせ持っているように思う。

■『経験のための戦い―情報の生態学から社会哲学へ』 199(翻訳2010)エドワード・S. リード
『日常経験にかかわるエロスつまり生きられた経験の喜びは、端的にいって生活への愛、[事物や他者との] 出会いや効用の快感である。エロスは対象や情況とのわれわれの出会いに内在している。』
『われわれの生活の意味は、自分でそれを捜す努力を払うときにのみ見いだされるだろう。』(リード)
経験の喜びを取り戻せ、というのが本書の主張であり、そのためには愛や努力が必要であるとされるが、そのような愛や努力の芽生えのようなものはいたるところで散見される。それは必要であると叫ぶよりその喜びを得ないともったいない、と自らの体験に結びつけるべき種類のもののように思う。

■生活によって意識を超える 2008 オノケンブログ
『生活を見直すことでそこから意識を超えた豊かさを生み出す、とイメージしてみる。ここでいう生活とは関係性をデザインすることである。(と言ってみる)意識から飛び出したものとの関係性。そういうものがきちんと見えているか。』(太田)
この時に書いたことは、関係性を環境との関わりあい、デザインを能動的な生態学的活動のことだとすれば、今書いていることと同様のことを言おうとしていたのかもしれない。

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