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おいしい創作 ~<建てること>を<住むこと>へ届ける

現代社会は工業化・分業化などによって<建てること>と<住むこと>が分断されている状況だと言って良い。

<住むこと>が<建てること>と分断された状態では、人間は住むことの本質の一部しか生きられない。だとすれば、現代社会においてどのように<建てること>を<住むこと>へ届けるか、というのが現代における一つの命題になる。その際、知覚の公共性と持続性が鍵になるように思うが、住む人が直接<建てること>に関わる以外にどのような方法が考えられるだろうか。

一つは技術によって届ける、ということが考えられる。これを住む人の<建てること>の代行だとすると、手の代行と頭の代行があるように思う。

手の代行はつくることの直接的技術によって行われる。ある種の職人の技術は、手の跡や技術の歴史などの<建てること>に関わる情報を埋め込むことができる。それによって<建てること>が時間を超えて住む人に届けられ知覚される。

頭の代行はつくりかたを考える技術によって行われる。どのような場合もつくりかたを考えるということがあるはずだが、それが環境との関わり方が濃密で、固有性を持ち、隠蔽されずに思考をトレースしやすいものであるならば、それはつくられたものに情報として埋め込まれるはずである。そこに内在する<建てること>が時間を超えて住む人に届けられ知覚される。

または象徴によって届ける、ということが考えられる。象徴とは埋め込まれる情報を何らかの方法(例えば定着と違反の均衡化)によって際だたせることで、注意と知覚の持続性を高め、人間に活気をもたらすようなものである。<建てること>によってつくられた象徴は、その意味と価値を維持しながら住む人へと届けられ持続的に作用する。それは<建てること>と<住むこと>を貫くことである。

さらに、共有する環境を埋め込むことによって届ける、ということが考えられる。建てる人と住む人はある程度同じ環境(これは文化や要望といった非物理的な環境も含む)を共有する。建てる際に環境から適切な不変項を抽出し、建築に埋め込むことでそれは住む人へと届けられる。それらは例えば「複合(まとまり)」や全体を貫くコンセプト、あるいは抽象などによって、より高次なものへと高めることで、埋め込まれた環境の情報はより深く、しっかり届けられる。それは、建てることによって初めて見出された意味や価値であり、建てることの本質を届けることである。

このように、<住むこと>へ届けられ知覚されることによって、何らかの意味や価値が見出される<建てること>を、おいしい創作と呼ぶことにする。

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