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How どう/技術

どうつくればよいのか。

その目的あるいは目標は、おいしい建築すなわち「それによっておいしい知覚が可能となるもの」である。

しかし、「おいしい知覚をつくること」とは少し違うように思う。
何が違うか考えてみたい。

目指すところは建築設計における生態学的転回である。

はたらきとしての設計

生態学的な設計とは、環境を能動的に探索しながら情報をピックアップし、それを利用して調整することの循環による、自律的なはたらきのことである。

ここで、設計をはたらきとして捉えることが決定的に重要であるように思われる。

おいしい思考のところで述べたように、思考は自己と自己との言語を介した相互行為であり、そこで生成された言語を自ら受け取り、さらに言語を生成するという、知覚-行為のサイクルと捉えられる。

同様に設計も、自己と設計案及び環境の間の、知覚-行為による相互行為のサイクルだと捉えられるが、そこにはそのサイクルを作動させるはたらきがある。

それは、設計行為に関わるはたらきが環境の中で回転し続けることで、自らの形や境界を調整しながら形成していく動的なイメージであり、そのはたらきを豊かに維持し続けることが設計の密度へとつながる。

言葉と概念、環境への投入

ところで、オノマトペのような言葉や思考により生み出された概念、その他<何を>のところで考えたおいしい知覚はこのはたらきにどのように関わりうるだろうか。

これらを設計の原理として捉えることは、これまで考えてきた生態学的な視点にはそぐわないし、それでははたらきは有効に作動しない。

それらはあくまで、設計に関わる環境の中に探索の対象として投入されるべきである。

それによって思考や概念、その他おいしい知覚は、はたらきを維持させたまま設計に関わることができる。また、そうでなくては、目の前の現実を現実のままとして、知覚的・直接的に捉えることはできなくなってしまう。

それは、現実を何かに還元しないという勇気でもある。

遊びの文脈と環境の分散

設計のはたらきにおいてさまざまな予期せぬ環境に出会う。ここでいう環境は物理的なものに限らず、要望や社会・文化・歴史的環境、さらには先に書いた設計過程において環境に投入される事柄も含む。

その予期せぬ環境を主観的な設計意志に対する制約(痛み)として受け止めるのではなく、その環境を遊びの文脈に置き、探索可能な可能性の海と捉えることで、設計行為を知覚-環境-技術のダイナミックな関係性の中に位置づけることが必要である。

また、環境内にはさまざまな要素が混在するが、突出した要素は他の要素の探索を阻害し、循環によるはたらきを弱めてしまう。

遊びの文脈のもとで、環境を自由に探索するためには、多種多様な要素が環境内に存在し、各要素がある範囲のバランスの中にあること、すなわち環境の分散が必要であるように思われる。それによってある種の自在さのようなものが獲得できる。

少年のモード

<どう>の問題は「どのようなはたらきの中に身を置くか」と置き換えられる。

設計のはたらきを豊かに作動させ続けるためには、経験を開くような態度が求められる。

それを河本英夫氏は経験に対する少年のモードと呼んだ。

それは自分の経験と建築を前に進めるための態度であり、「どのようなはたらきの中に身を置くか」を実践するためのものである。その先には、手法に焦点を当てるのではなく、態度へと焦点を当てた設計論がある。

つまり、設計における生態学的転回とは、理論的手法から実践的態度への転回のことではないだろうか。

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