おいしい地形 補足

■『原っぱと遊園地 -建築にとってその場の質とは何か』2004 青木淳
『ちょっと雑な気がするけれど、建築は、遊園地と原っぱの二種類のジャンルに分類できるのではないか、と思う。あらかじめそこで行われることがわかっている建築(「遊園地」)とそこで行われることでその中身がつくられていく建築(「原っぱ」)の二種類である。』
『普通には「いたれりつくせり」は親切でいいことだと思われている。でも、それが住宅全体を決めていくときの論理になることで確実に失われるのは、「原っぱ」に見られるような住む人と空間の間の対等関係である。しかし、見渡してみれば、住宅を取り巻く状況は、すでに「遊園地」に見られるように、空間が先回りして住む人の行為や感覚を拘束するのをよしとする風潮だろう。』
『はっきりいって設計するということは、残念ながら本来的に人に不自由を与えることなのだと僕は思う。どんな設計も人を何らかのかたちで拘束する。だから、僕はそのことを前提にして、それでも住むことの自由を、矛盾を承知のうえで設計において考えたいと思っている。それが、つまり、「いたれりつくせり」からできるかぎり遠ざかった質、ということの意味である。もともとそこにあった場所やものが気に入ったから、それを住まいとして使いこなしていく。そんな空気を感じさせるように出来たらと思う。』
『形式の外にいられるように錯覚することが自由なのではない。形式の中にしかいることができないにもかかわらず、その外があるとして物事を行うこと。それが自由という言葉の本来の意味だと思う。』
『はっきりしていることがふたつあって、それについて書いてみようと思う。ひとつは、空間のどんな決定ルールも、本当のところは、そこでの人間の活動内容からは根拠づけられるべきでないこと。つまり、どんな決定ルールもついには無根拠であることに耐えること。ふたつめは、そのことを誠実に受け入れるならば、より意識的3 に決定ルールに身を委ねて、それが導いてくれる未知の世界まで、とりあえずは辿り着いてみなくてはならないだろう、ということである。』
『たいていの建築では、決定ルールが中途半端な適用になる。ある程度は形式的で機械的だけど、またある程度は、人の心の反応を想定した経験的なものになる。こんな風にすると人はこんな感覚をもつだろう。こんな感覚をもたせたいからここはこうしよう、そんな意識が混入する。確かに人間は、歴史的にでき上がっているそうした意味の網目の世界に住んでいる。だけど、こういう作業が当然のように行われることによって、建築は人間の心をきっと不自由にする。実際に、ぼくがある種の建築に感じるのは、それゆえのあざとさであり、お仕着せがましさだ。』(青木淳) 

■『原っぱ/ 洞窟/ ランドスケープ ~建築的自由について』 2005 オノケンブログ
『青木淳のいう「原っぱ」というキーワードは、僕の中では「洞窟」という言葉であった。
例えば無人島に漂着し、洞窟を見つける。そして、その中を探索し、その中で寝たり食べたりさまざまな行為をする場所を自分で見つけ、少しずつその場所を心地よく変えていく。
そこには、環境との対等な関係があり、住まうということに対する意志がある。
それは『棲み家』という言葉で考えたことだ。
青木淳が言うように建築が自由であることは不可能なことかもしれない。しかし、この洞窟の例には洞窟という環境がもたらす拘束と、そこで行うことがあらかじめ定められていないという自由がある。
その両者の間にある『隙間』の加減が僕をわくわくさせるし、その隙間こそが生活であるともいえる。洞窟のように環境と行動との間に対話の生まれるような空間を僕はつくりたいのである。
そう、人が関わる以前の(もしくは以前に人が関わった痕跡のある)地形のような存在をつくりたい。建築というよりはランドスケープをつくる感覚である。
そのように、環境があり、そこに関わっていけることこそが自由ではないだろうか。何もなければいいというものでもないのである。
青木は『決定ルール』を設定することで自由になろうとしているが、これは『地形』のヴァリエーションを生み出す環境のようなものだと思う。『洞窟』はある自然環境の必然の中で生まれたものであろう。その環境が変われば別のヴァリエーションの地形が生まれたはずである。
その『決定ルール=自然環境』によって地形がかわり、面白い『萌え地形』を生み出す『決定ルール』を発見することこそが重要となる。
ただの平坦な(それこそ気持ちまでフラットになるような)町ではなく、まちを歩いていて、そこかしこにさまざまな『地形』が存在していると想像するだけでも楽しいではないか。
もちろん、その『地形』とは具体的な立体的構成とかいったものでなく、もっと概念的なもの、さまざまな『可能性』のようなものである。』(太田)

■「地形のような建築」考【メモ】 2010 オノケンブログ
『(地形) の特質とは何か。ここで「地形のような建築」と言うときの地形を括弧付きで(地形)と書くことにして、(地形)の特質は何かを考えてみます。
まず、(地形)は(私)と関係を結ぶことのできる独立した存在であり環境であると言えるかと思います。(私)に吸収されてしまわずに一定の距離と強度、言い換えれば関係性を保てるものが(地形)の特質と言えそうです。この場合その距離と強度が適度であればより関係性は強まると言えそうです。
また、敷地と言うものも地形かといえば十分に地形です。ですが、一般的な造成された敷地に対して(地形)をあまり感じません。地形は地球レベルのとてつもない時間の中で隆起や侵食などを繰り返してできた自然条件による現時点での結果であり、その結果にはそれまでのプロセスが織り込まれています。ですが、平らに造成されてしまった敷地では、すくなくともあるスケールに於いてはそのプロセスが一度リセットされた少数の意思による短期間の結果のみが残ります。リセットによって(地形)を感じなくなったと考えると、逆に(地形)の特質はプロセスが織り込まれていることであり、現時点もまたプロセスに過ぎないということになるかもしれません。そして織り込まれたプロセスが重層的・複雑であるほど(地形)の特質は強まると言えそうです。
以上の二つを(地形)の自立的関係性・プロセス的重層性と仮に呼ぶことにします。』『また、一つの地形である敷地に対して(地形)をつくりたいと言うのはどういう事でしょうか。例えば(地形)の特質を備えた敷地に対してはわざわざ(地形)としての建築を建てる必要はないような気もします。(それはまだよく分かりません)ですが、敷地・建物・モノその他私たちのまわりの環境から(地形)の特質は薄くなってきているのが現実としてあり、それに対する欲求は無意識のうちに高まってきているのではないか、という気がしています。そんななかで地形ではなく(地形)を求めることに建築としての可能性があるのではないかと思います。』
『地形のような建築とは。これはゆっくり考えていきたいですが、(地形)の特質、自立的関係性とプロセス的重層性を備えたものと言えそうです。(特質についてはもっと考える余地あり)必ずしも形状として地形のようである必要はなく、概念的なレベルで(地形)的であってもいいし、形状から離れた方がもしかしたら面白い発見があるかもしれません。また、地形ではなくあくまで建築であるためのキモはどこにあるかも考えて行きたいです。おそらく地形ではなく(地形)の特質をもった” 建築” になるボーダーのようなものがあるはずです。』
(太田)
これらで考えたことは、まさに環境との関わり合いとして、生態学的に捉えられる事柄である。

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