おいしい創作 補足

■『建築に内在する言葉』 関連:坂本一成
『当然のことながら、人の生活が始まったその場と、竣工時からの状態とのあいだに、そこに現象する空間の質の違いを感じた。そこでは私が計画して建てた空間は消失し、別の空間が現象している。[…]人が住むそのことが、生活を始めるそのことが、別の空間を現象させることを意味する。すなわち、住むこと(住むという行為である生活)はひとつの空間をつくることになると言ってよい。[…]<住むこと> と< 建てること>(ハイデッガー)が分離してしまった現在において、建てる者、建築家に可能なことは、ただ人の住まう場を発生させる座標を提出、設定することに過ぎない。それゆえその住まう場の座標に、建築としての文化の水準、つまり<住むこと> の別の意味の水準が成り立たざるをえないことになる。』
『ボルノウにしてもハイデッガーにしても、あるいはバシュラールにしても、ある意味で< 住むこと> と< 建てること> の一致に人間であるための前提を見ているように思われる。しかし、前で述べたようにその一致は現代において喪失されている。だからこそ、まさにその< 住むこと> の意味が問題にされる必要があるのだろう。だが、現代社会を構成する多くの人間にとって、この< 住むこと> の意味はほとんど意識から遠ざかっているのではあるまいか。日常としての日々の生活を失っていると言っているのではなく、< 建てること> を失った< 住むこと> は、その< 住むこと> のほんの部分だけしか持ちあわせることができなくなったのではないかということである。』(坂本一成)
<住むこと>と<建てること>の分離をどのように乗り越えるかが人間であるための一つの命題となる。

■『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』2013 村田純一 他
『建物をめぐって、わたしたちは、日々多くを営んでいる。なかでも、設計すること(つくること)と住むこと(つかうこと)は、その代表的なものだといえるだろう。[…]本章では、こうした背景を踏まえた上で、いま一度設計と利用の関係について検討してみたい。そして、設計と利用とを一元的に捉える、もうひとつの展開について検討してみたいと思う。それは、設計という営みに生態学的な特性を見出すことを通して、設計と生活のいずれもが環境に根ざした営みであることを確認しようとするものである。』(関博紀)
ここでは実際に住宅を設計するプロセスを分析しながら(つくること)と(つかうこと)を一元化する可能性が模索されている。
その分析の中で様々な要素に対して「出現」「消失」「復帰」「分岐」といった操作が抽出され、『操作同士が関係を結び始め、自ら新たな操作を生み出すというような自律的な変動』、操作の「連動」が抽出される。
さらに、『変化を伴いながら連続するという変動は、その背後で複数の動きが関係し、一方の動きが他の動きを含みこむような複合的な過程』、操作の「複合」が抽出される。図式化すると(出現・消失・復帰・分岐)⊂(連結)⊂(複合)といった感じになるように思われる。
ここで「複合」は『平行する複数の操作を含みこむような動きであり、また設計者にとっては「設計コンセプト」に相当するものの発見として報告されていた。つまり、「複合」は他の五つの振る舞いを含みこんだ「高次」な動きになっていたといえる』。
もともと設計という行為は生態学的な構造を持っていると思うが、「複合」はそれ以前の操作による環境の探索によって得られた「技術」のようなものとして現れたと言える。それは、設計者がもともと持っていたものというよりは環境との関わりの中から発見されたもので、その「技術」には環境が内包されているため、(つくること)を超えて(つかうこと)においても新たな(つかうこと)を生み出す可能性を持っているように思う。
それは(うまくいけば)利用者が設計者がたどった過程をなぞることができるかもしれないし(塚本由晴が別で言ったスキーマ・レジスターの役割)そこには設計者→利用者の一方的な押し付けではなく、同じ環境・景色を眺めているような共有関係が生まれる可能性がある。
『以上の議論を踏まえると、前節で得られた「複合」としての振る舞いには、こうした「外部特定性」を獲得する振る舞いに相当する部分が含まれていると考えられる。なぜなら、「複合」とともにあらわれていた「設計コンセプト」としての「キノコ性」は、設計者が獲得したものでありながら、一方では対象地の与件に深く根ざしたものだからである。つまり「複合」とともにあらわれていた「キノコ性」は、Sによって特定されたこの案件の「不変項」として理解できる可能性がある。こうした理解が可能ならば、建築行為は、「設計コンセプト」の獲得という高次の水準においても環境と結びついており、生態学的な側面を必然的に含むものとして位置づけられると考えられる。』(関博紀)
設計コンセプトというと何となく恣意的なイメージがあったが、環境との応答により得られた技術としての、多くの要素を内包するもの(「複合」)と捉えると、(つくること)と(つかうこと)の断絶を超えて本質的な意味で(つかうこと)を取り戻すための武器になりうるのかもしれない。

■『レイアウトの法則 -アートとアフォーダンス』 2003 佐々木正人『この考えは建築における床や壁や窓や家具の配置が、設計者が周囲の環境を読む図式を含んでいるということに基づいていますが、ここで重要なのは、そういう図式は建築の実態に定着されれば、設計者を離れてその建物を体験する人にも再現されるということです。しかも環境の読み方と方法のあいだから作者の個性や恣意性が消えれば消えるほど、鮮やかに再現されるということです。この図式というのは、ギブソンの影響を受けたアーリック・ナイサーの言う「スキーマ」に近い。だから、建築はつくられた時の環境の置かれ方を、できあがってからもそこに身を置く人に伝えるという意味で、スキーマ・レジスターと言えるのではないかと思います。(塚』本由晴)
これも上記と同様のことを述べている。その際に重要なのは「作者の個性や恣意性が消えれば消えるほど」再現されやすい、ということでより高い次元にまで密度を高めるということだろう。しかし、作者そのものが消えることではないと思う。個性や恣意性はどうしても残るし、そこに埋め込まれる悩みや迷い、楽しみや思いなどと言ったものが深ければ深いほど、<建てること>はより深く埋め込まれ、鮮やかに<住むこと>に届けられるように思う。

■ケンペケ03「建築の領域」中田製作所 2015 オノケンブログここでの大きな問いは『「建てること」と「住むこと」の分断をどう乗り越え、それによって住むことの中に建てることを取り戻すか?』にある。それに対して、1.(施主を)直接的に「建てること」に巻き込む。
2.(職人の)「建てること」の技術に光を当てて住む人の建てることを代弁させる。
3.(設計によって)「建てること」と「住むこと」を貫く。
の3つを挙げた。
1に対しての問いは単純だが「どの部分をどうやって巻き込むか?それによって何を得られるか?」
2に対しては「どのような技術が住む人の建てることを代弁しうるか?」
3に対しては「具体的にどのようになれば設計によってそれらの分断を乗り越えられたといえるか?」
といったことが課題となる。また、安直な手仕事を「建てること」の復権と考えることは、場合によっては結果的に「住むこと」そのものを貶める危険性を持っている気がするが、「どのような場合に「住むこと」を貶めたことになるだろうか。また、どのような『つくり方』をすれば「建てること」と「住むこと」の分断を乗り越えられるか?というような問いもある。先の3つは最初に意図してたわけではないが、施主・施工・設計にそれぞれ対応していた。それぞれが「建てること」から離れてしまっており、どれか、というよりそれぞれバランスよく対応できるような作り方が理想的なのかもしれない。

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