おいしい技術 補足

■『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』2013 村田純一他
『人間の環境内存在はつねに「技術的環境内存在」であったし、現在もそうである。本巻の主題は、この技術によって媒介された環境内存在のあり方を日常生活の中で出会う具体例に則して明らかにすることである。』
『例えば、私たちがそれまで危険で近寄れなかった火をうまく扱うことができるようになったり、あるいは、それまで何げなく見ていた木の枝を箸として使える道具とみなすことができるようになったりする過程は、新たなアフォーダンスの発見過程であると同時に、新たなアフォーダンスの製作過程と考えることもできる。このように知覚と技術に共通に見られる環境とのかかわり方に着目することによって、技術論の生態学的アプローチへの道筋が垣間見られる。』
『ギブソンの言葉を使うと、ここで知覚-行為連関は、特定の目的の実現に奉仕する「遂行的活動(performatory action)」から区別された「探索的活動(exploratpry action)」というあり方を獲得するといえるだろう。』
『このような仕方での知覚と行為の新たな連環の獲得、新たな仕方での環境との関わり方の「技術」の獲得が、先に述べた学習を通しての環境の構造変換の内実をなしている。』
『子供が技術を獲得したから、環境が変化するのではなく、また、環境が変化したから子供が技術を獲得したわけでもない。知覚の技術と知覚に導かれた運動制御の技術を獲得することはすなわち、新たなアフォーダンスが発見され環境に備わるアフォーダンスのあり方に変換が生じることに他ならないのである。』(村田 純一)
『(チンパンジーがバナナを取る際に置いてあった箱を利用すること発見したことに触れて)このように、環境内に新たなアフォーダンスが発見され、それまでのアフォーダンスが変換を受けることが、すなわち箱を使って技術の獲得を意味しているのである。』(村田 純一)
ここでは知覚・技術・環境のダイナミックな関係性が見て取れる。知覚・技術・環境といった一連の関係性が「生態学的転回」の視点を導くもののように思う。
技術の獲得・アフォーダンスの変換が生じることはそこで過ごす人々にどう関わるだろうか。知覚・技術・環境のダイナミックな関係性が築かれることは、人間が環境と切り離せない存在だとすると、それは人の生活を豊かにすることにつながり、生きる悦びとつながるように思う。ここで、技術の獲得をふるまいの発見と重ねあわせると塚本由晴の「ふるまい」という言葉の持つ意味が少し見えてきそうな気がする。そのような関係性をどのように生み出すかは建築の設計においても大きなテーマになりうるだろう。
また、一つのもの・要素がいくつもの機能を内包しているようなデザインに何とも言えない魅力を感じることがあるが、それがいくつもの「技術のあり方」「環境とのかかわり方」を暗示しているため、そこに可能性のようなものや自由さを感じ取るからかもしれない。塚本氏の言葉を使うと「閉じ込められて」いないということだろうか。

■『小さな風景からの学び』2014 乾久美子
『それらに魅力的な物が多い理由は、その場で提供される空間的サービスが、時間をかけて吟味され尽くしているからだと考えられる。その場で受け取ることのできる地理的、気候的、生態的、人為的サービスを何年にもわたって発見し享受する方法を見出し続けることで、その場における空間的サービスの最大化がなされたと考えれば、あのように包み込まれるような魅力や、あたかも世界の中心であるかのような密度感や充実感も納得できるのだ。』(乾久美子)
本書は「発見されたもの」を集積したものと言える。(「発見されたもの」とは、著者により発見されたものであると同時に、その光景が生み出される過程において誰かに「発見されたもの」でもある。)また、「どうつくるのか」という問題は本書では開かれたままになっている。
では、その「発見されたもの」と「どうつくるか」、発見と創造をどうすれば結びつけることができるだろうか。ここで深澤直人の言葉を引くと『感動にはプロセスがあり、場があり、状況がある。[…]デザインされたものやアートもそのもの単体ではなく状況の作りこみである。埋め尽くされたジクソーパズルの最後のピースがデザインの結果であるが、そのすべてのピースがその最後の穴を形成していることを忘れてはならない。』(『デザインの生態学』深澤直人)とある。創造に関して、「発見されたもの」すなわち結果そのものを作ろうとするのではなく、「発見される」状況をセッティングする、という視点を持ち込むこと。それは発見する側の者が関われる余白を状況としてつくること、と言えるかもしれないが、このことがアフォーダンス的(身体的)リアリティの源泉となりうるのではないだろうか。そういった質の余白を「どうつくるのか」ということを創造の問題として設定することで、発見の問題と創造の問題をいくらかでも結びつけることができるような気がする。
また、その状況の先に積み重ねられた「発見されたものの」のあつまりは、そのままで知覚の悦びとなるように思う。

■「環境」についてのメモ 2015 オノケンブログ
『もう一つは島田陽氏の建築と家具の扱いが思い浮かんだ。建築の機能を引き剥がして家具的なものに置き換えることで「環境」や「機能」のあり方に変化を与えている。この時、建築を家具に置き換えることは普通に考えると機能と形態が一対一でより強く結びつきそうな気がするがどうしてそうならないのだろうか。(一般的に家具は機能に対して補助的に与えられるもののように思う。)よく見てみると、建築の機能を家具に置き換えると言っても、例えば階段が棚や箱になったり、トイレが収納になったりともともとの機能からずらして弱めることで一対一に固定化することを注意深く避けているように思う。そこにはやはり環境との出会いが状況として用意されている。』(太田)
島田陽の家具の扱いとそこで感じる魅力をどう解釈すべきか考えているが、この文脈で言えば、それは技術の現れのずらしによる知覚の悦びの継続と活性化と捉えられるであろう。

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