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【黄昏学園SS-13】この感情に名前をつけるなら

「塞翁君、あの電車に乗るぞ、急げ!」
「ま、待って、ニノマエくん! 人混みがすごくて……わっ、ごめんなさい!」

 ぶつかった人にぺこぺこ頭を下げたあと、おれはダッシュでニノマエくんの指差していた電車に飛び乗った。

 車内は空席どころか、人の立つスペースすら余裕がない。おれはあわてて背負っていた黒いリュックを持ち替えて、ぎゅっと胸に抱きしめる。

 息も整わないうちに、発車を知らせるごきげんなメロディーが流れて、プシッと音を立てて扉が閉まった。どこへ行くかも分からない電車が、おれ達を乗せて出発する。

 加速が終わって安定した速度になったころ、ニノマエくんは愉快そうに、くくく、と笑いをもらした。それからひそひそと、でも興奮気味に、おれにささやく。

「……脱走成功だな!」
「へへ……成功、っすね!」

 顔を見合わせて、ひかえめなグータッチ。ほかの乗客に迷惑になっちゃだめだから、派手なアクションはできないけど、でも今もまだ、全力疾走だけじゃない理由で、胸がすごくどきどきしている。

 修学旅行で脱走する。
 こんなことするの、初めてだ。

 興奮と、すこしの後ろめたさが混ざって、足もとがふわふわする。こっそり電車のなかの様子をうかがってみたけど、日曜日なのに制服姿のおれ達のことなんて、誰もぜんぜん気にしてないみたい。
 さすが大都会。さすが東京。

「これで晴れて自由の身になったな!」
「へへ、どこでも行けますね! ニノマエくんはどこか行きたいとこ、あるっすか?」
「うーん……とりあえず適当に飛び乗ったからなぁ。この電車、一体どこに行くんだ?」

 おれ達はあたりを見回して、車内の路線図に目をやった。おれもニノマエくんも背が高いから、こういうときに見通しが良くてありがたい。これが榎本さんや、背の低いオダネネだったら、大変だったろうな。

 オレンジ色で駅を繋いだ路線図は、まるで星と星とを繋いだ星座線みたいだった。
 おれ達が電車に飛び乗った、東京。前に畢生綴りを探しに行った神保町のある、神田。椎名林檎の歌にも出てくる、お茶の水。四谷。新宿……は、国立競技場が近いからパスかな。中野。高円寺。阿佐ヶ谷……。もっと遠くへ行ってみたい。

 駅名を視線で追いかけていたおれは、とある駅に目を留めて、あ、と小さく声を漏らした。

「「吉祥寺!」」

 おれとニノマエくんの声が、綺麗にハモる。
 おれ達は、きょとんとお互いの顔を見合わせて、それから声を殺して爆笑した。


   ◆ ◆ ◆


 吉祥寺駅で降りて、電車を見送っていたおれは、思わず「ひえっ」と声を上げる。

「どうした塞翁君」
「あ、あの、さっきの車両に、生活指導の毒島先生が……」
「は!?」
「危なかったっすよね! 気づかれなくて良かった!!」
「マジか。間一髪だったんだな……。しかし徳島の奴、まだ僕達を探してるのか」
「たぶん……。でも体格が良すぎて目立つから、あんまり捜索向きじゃないっすよね」
「上野公園あたりで捜査網張ってたら気づかなかったかもな。徳島、ゴリラっぽいし」

 うーん、と満員電車で凝り固まった身体を伸ばしながら、ニノマエくんがさらっと毒を吐く。
 電車が通過したあとに通り抜ける風が、ニノマエくんの制服のプリーツスカートを揺らした。カラスの塗れ羽根みたいな長い髪が、風にさらさらともてあそばれて、珊瑚の唇や白磁の肌を隠す、御簾みすみたいになる。
 ……口の悪い美人って魅力的だなあ。

 おれたちは改札を抜けて、吉祥寺駅の北口に向かった。抜けるような青空の下で、人がごった返しているのが見える。なかでも古着をおしゃれに着こなした、二十代くらいの人達が多いみたいだ。さすが若者カルチャーの中心地。

 ……とりあえず平和通り方面に来たけど、どこに行こう?
 観光スポットとか、調べた方がいいかな?

 おれが無意識のうちに、ポケットに入っているスマホに手を伸ばしかけたとき、ニノマエくんがニッと笑った。

「僕、吉祥寺に来るのははじめてだ! あっちへ行ってみないか、塞翁君」

 賑わっている方を指差したニノマエくんは、スカートをひるがえすみたいにくるりとターンして、出口に向かって歩き出す。
「探検みたいで楽しいな」と、立ち止まったおれを振り返って、笑いかける。
 屋外に出たニノマエくんには、太陽の光が降り注いでいて、黒真珠みたいな瞳が、きらきら綺麗に輝いていた。

 おれはポケットに伸ばしかけた手をぎゅっと握りしめて「そうっすね! 楽しいっす!」って、空に声を飛ばすみたいに答えて、先を行くニノマエくんのもとへ走る。

 それからおれ達は、あてどなく行き当たりばったりに、吉祥寺を散策した。ハーモニカ横丁の狭い路地を歩いて、ZINEや海外のリトルプレスとかも扱っている古書堂を覗いて、ポスターがぺたぺた貼られたミニシアターをひやかして、カラフルな輸入雑貨店の軒先を眺める。

 色違いにペイントされたものが寄り集まって、虹みたいに陳列されたブリキのじょうろ。ビビットな色をした、ソフトビニールの豚の人形。マリメッコみたいなカラフルな柄の、キャンバス地のトートバック。見ているだけで楽しくなるものが、この街にはいっぱい並んでいる。

「ん!? なんだこのメンチカツ! 肉汁がすごいぞ」
「ふが、ぅあつっ! ……ほんとだ! おいしい!」

 元祖丸メンチカツ、と黒いのれんが掛かったお店の前で、おれ達は茶色い塊にかぶりついた。ジュワッと肉汁が溢れる、肉感たっぷりのメンチカツの美味しさに、おれ達のテンションは最高潮だ。

 ニノマエくんは「姉貴達に自慢してやろっと」と、メンチカツと、それを食べる自分を自撮りして、桜色の指先で、スマホをスイスイなぞりはじめた。

 おれも伊織姉ちゃんと竜希に自慢しちゃおっと。
 家族のグループLINEにメンチカツの写真を送ると、間髪入れずに竜希から「自慢かよ! 小虎お前くたばれ」って、うらやみのLINEが返ってくる。
 ……へへ、ごめんね。お土産ふんぱつするから、許してね。

 そうだ、裏解決部のグループLINEにも送ろうかな? 食いしん坊な榎本さんなら「塞翁君、今どこにいる。私もそちらに向かおう」って喰いつくかも。そしたら榎本さんとも合流できるし、たぶん榎本さんと一緒にいるオダネネとも……。

 ──好きっつーか。
 ──全部お父さんの不倫相手から聞いたんだから!

 指先がフリーズする。
 おれはこっそり小さく溜め息をついて、スマホを真っ黒に眠らせた。
 せっかくの修学旅行なんだから、オダネネや榎本さんとも楽しみたいのに、いろいろ気まずい。

 メンチカツを食べ終わってぶらぶら歩いていると、ニノマエくんが「ん?」と声を上げた。

「どうしたんすか、ニノマエくん?」
「……いや、あのあっちへふらふら、こっちへふらふらしてる紫のミディアムヘア、なんだか見覚えがあるような」
「え? ……あ!」

 まさかおれ達以外にも、吉祥寺に来ていた人がいるなんて。
 おれは、振り子みたいに揺れてる人に近づいて「雨森さん!」と声を掛けた。
 背後から声を掛けたのが悪かったのか、雨森さんは「ひゃ」と小さく鳴いて、その場でぴょんと飛び上がる。

「ごっ、ごめんなさい……! すぐに戻りますから……!」

 雨森さんが小さく縮こまって、ぺこぺこ頭を下げはじめたので、おれはあわてた。

「や、違う、先生じゃないっすよ!」
「……ぇ、あ、塞翁先輩……一先輩も……」
「驚かせちゃって、ごめんなさい……!」
「い、いえ、私の方こそ、勘違いしちゃって……。失礼しました!」

 向かい合って頭を下げ合うおれ達に、ニノマエくんが「……いいかげんにしないと頭に血が上るぞ?」と茶々を入れた。

 おれ達は思わず苦笑いして、身体をまっすぐ立て直す。雨森さんは、右目を隠している長い前髪を手ぐしできながら「えへへ……」と、頬を赤くして、はにかんだ。

「それで泡盛君は、こんなところで何をしてたんだ? さっきは何やら、ゆらゆらしていたみたいだけど」
「あ……見られてたんですね……恥ずかしいなぁ……」

 雨森さんは両手で持っていたショッパーを、ぎゅっと抱きしめた。つぎはぎのピンクのうさぎが描かれた、かわいいパステルカラーのビニールバックだ。

「えっと、えっと……」と言葉を探していた雨森さんは、しばらくしてぽそぽそと「あの……コピスに行って、欲しかった物が買えたので。それで、その勢いで、勇気を出して、あそこに入ろうと思ったんです、けど」と、すぼめた手をそろそろと、ビルに向けた。手で示されたのは、複数の商業施設が入った小さなビルだ。

「なかなか、思いきれなくて……」
「どこに入ろうと思ってたって?」

 ニノマエくんが手でひさしをつくって、目を凝らす。おれも雨森さんの言うビルを、目で追いかけた。

「えっと……」と小さな声で、雨森さんがつぶやく。

「あこがれの、吉祥寺のうさぎカフェです」


   ◆ ◆ ◆


 ──小虎先輩っ! 今どこですか~? 教えてくれたら、うらべはすぐに駆けつけますよっ!

「……あの、卜部さんもここに呼んでもいいですか?」
「はい、卜部さんが嫌じゃなければ、ぜひ。一緒にうさぎさん触れたら、嬉しいなぁ」

 ティーラテを飲んでいた雨森さんが、目じりを下げて、ふんわり笑う。
 ニノマエくんもアイスコーヒーを飲みながら「いいんじゃないか」と言ってくれたので、おれはうさぎカフェの地図を、卜部さんに送信した。

 ──いま、ニノマエくんと雨森さんと、この地図のカフェにいるっす。うさぎがモフモフできますよ!
 ──ウサギちゃん! むむ、さてはカワイイがいっぱいですね!? うらべ、秒でそっちに行きますね~!

 すぐに元気な返信がかえってきて、おれは思わず眉を下げた。
 卜部さんと話してると、元気になる。明るくて、いつも楽しそうで、返す言葉に迷いがない。一緒にいると、おれもすごく楽しくなる。

 ……オダネネや榎本さんと一緒にいても、楽しかったのにな。なんでだろう、ここのところずっと、二人と話そうとしても、上手くいかない。

 おれはスマホをテーブルに置いて、マスクをつまんで持ち上げて、目の前のストローをちゅーっと吸った。
 あまくてほろ苦いカフェオレが喉をすべり落ちる。積み上がった透明な氷が、カランと鳴った。

 雨森さんが行きたがっていたうさぎカフェは、雑居ビルの三階にあった。うさぎと触れあうコーナーとカフェスペースが、ガラス戸で区切られているタイプのうさぎカフェだ。
 親子連れや女性客で賑わっているから、うさぎをモフモフするまでの待ち時間が長そうだったけど、卜部さんが来るのを待つなら、ちょうどいいのかも。

「どの子をお膝にお迎えしようかなぁ……」とつぶやきながら、雨森さんはテーブルの上の小さなクリアホルダーをめくっている。店内にいる、うさぎの写真と特徴が書かれたカードが入ったホルダーだ。
 うさぎみたいな赤い眼を、興味津々って感じできょときょと動かしているから、向かいで見ているおれにも、うきうきそわそわしているのが伝わってくる。

 雨森さんが、視線をホルダーに注いだまま、ちっちゃい指先でティーラテのストローを引き寄せて、ちゅうっと吸った。「んっ」って声が漏れたと思ったら、雨森さんは、とつぜんケホケホむせはじめた。

「だ、大丈夫っすか!?」
「ひぅ、は、はいっ。……けほ、だ、だいじょうぶ、です……」

 ドリンクが変なところに入って……よそ見しながら飲んじゃだめですね……と、雨森さんが眉を下げる。
 白くて小さな顔。
 途端に、おれはなんだか雨森さんのことが心配になった。

「あの、体調とか、もう大丈夫なんすか? こないだまで、入院してましたよね……?」
「あ、それはもう、すっかり。ご心配をおかけして、すみません」

 ぺこりと頭を下げる、雨森さん。

 最善さんの迷宮が発生して、再開発地区に足を踏み入れた雨森さんは、迷宮を解決したあと高熱を出してしまって、入院した。
 退院したのはつい最近で、迷宮の雨森さんに寄せたみんなの書き込みに、一件一件丁寧な礼文を書いて送っていたのが、雨森さんが復帰してからの最初の動向だった。

 そこまで思い出したとき、カフェオレみたいな、ちょっぴり苦い気持ちがよみがえる。

「……あの、塞翁先輩。私の、お礼の書き込みのことなんですけど……」

 おれは目をまるくして雨森さんを見た。
 おれとおんなじこと、考えてたんだ。

 雨森さんは目を伏せて、言いにくいことをなんとか外に出そうとするように、口をはくはく動かしている。
 しばらくして、言葉がかすれた声に変換された。

「……その……生意気言っちゃいましたよね、私」
「え、いや……そんな」
「いいえ。……塞翁先輩宛てに書き込むことで、私、自分にも言い聞かせていたんだろうなって、今になって思うんです」

 ──自己犠牲は悲しみしか生まなくて。
 ──私もそれをよく知っているので……。

 迷宮の雨森さんがやったことは、確かに自己犠牲ともとれる行動だった。
 でもおれは、おれのやったことが自己犠牲だとは、まるで思っていなかった。だからこそ、雨森さんの書き込みに、頭をガツンと殴られたような衝撃を受けた。

 ……死ぬわけでも消えるわけでもない。
 必要だなって思ったときに、ちょっとくらい傷ついても構わないって思うのは、そんなにいけないことなのかな。
 礼文を受け取ってから、おれなりにいろいろ考えたけど、今でもまだ、答えは分からない。

 自然と視線が下がる。
 雨森さんが何か言いたそうに息を吸う音が聞こえたけど、それも沈黙に溶けて消えていった。

「──言っておくけど」

 雨森さんとおれが向かい合って黙りこんでいたら、張りのあるニノマエくんの声が、五月の風みたいな清涼さで割り込んできた。

 アイスコーヒーの氷をストローでカラカラ回す音と一緒に、はきはきとしたニノマエくんの声が続く。

「僕は塞翁君のことが大切で、好きだ」
「……へっ? あ、ありがとう、ニノマエくん。おれもニノマエくんのことが好きで」
「塞翁君が自分をどう思っていようとね。今はまだ自分を小さく使い減らしている程度だから、黙って見守っているけれど、それが行き過ぎて身を投げるような選択をしようものなら、今度の僕は塞翁君をぶん殴ってでも止めるつもりだから、そのつもりでいてくれ」

 おれは絶句した。
 殴ってでもっていう過激な言葉の方じゃなくて、今度は、っていう、繰り返しを止めたい言葉の強さに、貫かれた。

 夏也くんの自殺を止められなくて、自分を傍観者だっておとしめていたニノマエくん。
 おれだって、ニノマエくんにつらい想いをさせたくなんて、ない。
「自己犠牲は悲しみしか生まない」って書き込んでくれた雨森さんの言葉が、前より深く浸透していく。

 カラン、と陽気なドアベルの音が響いたのは、そんなときだった。

「ふふーん! 小虎せんぱーい! うらべが来ましたよ~!」
「あ。ああ……! 卜部さん……!」

 店に入ってすぐ、おれ達のいるテーブルめがけて、駆け足でまっすぐやってくる卜部さんのすがたを見て、おれは深刻になっていた空気がほどけるのを感じて、肩の力を抜いた。

「ちょっと分かりにくいところなのに、よく一人で来れましたね。えらいえらい」
「ふっふっふー! うらべは見た目は小学生、頭脳はJKの、天才うらべですからねっ! もっと褒めてくれてもいいんですよ~♡」
「自画自賛はともかく、なんだ? そのTシャツ。とびっ子? ダサくないか?」
「むー! いけてる原宿の黒人さんのおすすめTですよ!? えのちゃんや織田ちゃんだって、ばかわいい、似合ってるって、褒めてくれたんですからっ!」

 ぷくっと頬を膨らませる卜部さん。
 突然出てきたオダネネと榎本さんの名前に動揺するおれに気づかず、卜部さんは子ども用の椅子を進める店員さんに「あ、うらべは大人なので大丈夫です~!」と言って、その流れのまま、看板メニューのフレンチトーストと、タピオカミルクティーを注文した。

 しばらくして、うさぎ型に粉砂糖がよけられたフレンチトーストと、太いストローのついたタピオカミルクティーがやってくる。
 おれの隣のソファー席で、足をぷらぷらさせていた卜部さんは、意気揚々とナイフとフォークを構えたけれど、どう見てもテーブルが高すぎる。

「ほら、食べにくいじゃないか。素直に椅子を借りれば良かったのに」
「私、もう一度店員さんに言って、椅子を借りてきましょうか……?」
「んぐ……! ふ、ふーん! いいんですー! うらべの特等席は、小虎先輩のおひざの上ですからねっ!」

 そう言って、リボンのいっぱいついた頭を揺らしながら、よじよじとおれの膝の上に登ってくる卜部さん。
 わわわ……と内心であわてるおれを見上げて「さすが小虎先輩ですね~! ちょうどいいです!」と、卜部さんが、にぱっと満面の笑みを咲かせた。

 う、うーん……。まぁ、いいのかな?
 今の卜部さんは子どもだし、こうしないと届かないし、仕方ないよね……?

「ち、ちょうどいいなら、良かったっす……!」

 眉を下げて笑っていたら「塞翁君はとびっ子に甘すぎるな」と、ニノマエくんがあきれ顔になった。

「んっふっふ。うらべは小虎先輩が大好きですからね~! 小虎先輩ラブな、うらべ特権です!」

 ね〜! と明るく話を振られて、おれは「そ、そうっすね!」と返事をする。

 バレンタインに告白されてからというもの、おれは卜部さんに対して、よわよわだ。

 好きですって告白されて、告白される、イコール付き合いたいってことだと思っていたおれは、他の子達に言ってきたのと同じように、卜部さんにも「付き合えません、ごめんなさい」ってお断りした。

 でも、それに対する卜部さんの反応は「へ? 小虎先輩と卜部が付き合う? なんでですか?」といったもので、おれの価値観は、卜部さんに大きくひっくり返された。

 付き合いたいって気持ちを含まない「好き」は、おれにとって初めてだったから、あのときおれは、いろんな「好き」があるんだなあって、目からうろこが落ちるくらいびっくりした。

 卜部さんがフレンチトーストをぺろりとたいらげたあと、タイミングよく、うさぎのモフモフタイムの順番がやってきた。

 雨森さんは膝にうさぎを迎え入れて、とろけそうな顔でうさぎを撫でている。
 おれが「うさぎ、かわいいですね」と話を向けたら、雨森さんはめずらしく、うさぎみたいに白い小さな前歯を見せて「はい! えへへ」と、満面の笑顔を見せてくれた。

 ……世のなかには、いろんな好きがある。
 人間以外のものに向ける「好き」。独占欲をともなわない「好き」。間違ったときは叱ってくれる「好き」。憧れの「好き」。一緒にいたいって思う「好き」。家族への「好き」。友達への「好き」。恋愛の「好き」。

 おんなじ「好き」って言葉なのに、なんで全然違う気持ちをあらわしているんだろう?

 オダネネの「好き」は、どんな「好き」なんだろう?
 おれの「好き」は、どういう「好き」なんだろう?

 よく分からない。
 でも、おれは榎本さんのことが大切だから、今さら父親の過去を掘り返して傷ついてほしくなかったし、オダネネのことがだいじだから、よく分からない気持ちで気まずくなって、心が離れるのが嫌だったんだろう。

 この気持ちがどんな区分に入るのかはまだ分からないけれど、それでもおれは、あの二人のことが「好き」だ。
 大切で、だいじで、できればずっと、しあわせそうに笑っていてほしい。

 ……毎年修学旅行に沖縄を選んできたのは、おれがずっと、ひとりぼっちだったからだ。
 どうせ友達もいないから、言葉を必要としない海で、ずっとシュノーケリングをして、魚と一緒に泳いで遊ぶ。
 それでおれは、じゅうぶん楽しかった。

 でも今年、オダネネに「東京いこーぜ」って誘われて、おれはわくわくして眠れないくらい嬉しかった。
 いつもは一人で遊びに行く東京だけど、修学旅行でオダネネや榎本さんと一緒に行けたなら、スカイツリーも、浅草も、ディズニーランドも、お台場も、おれにとってきらきら輝く星みたいな場所になるかもしれないって、そう思った。

 ほんとうはずっと、好きな人との思い出の星を繋いでいく、おれだけの特別な星座線が欲しかったんだ。

 うさぎカフェを出て、四人でぶらぶら吉祥寺を歩く。
 背丈も性別も年齢も違う、てんでばらばらの四人で、ふざけあいながら歩いていく。

 ふと、花屋の軒先で、色とりどりの花が並んでいるのが目に留まった。
 チューリップ。バラ。ガーベラ。かすみ草。それから名前の知らない花も、こんもりたくさん生けてある。

 色も形も大きさも違うけれど、ここに咲き乱れているのは、どれもぜんぶおんなじ、花って名前の植物だ。
 かわいいかたち。きれいなかたち。かっこいいかたち。ちょっとさみしそうなかたち。どれを手に取って選ぶかは、人によって、ぜんぜん違う。

 花のかたちは日々変わっていく。ずっと同じものなんてない。生きている植物である以上、いつかは枯れてしまうだろう。

 それでも、喜んでほしくて、こっちを見てほしくて、人はかたちのない気持ちを、かたちあるものに託して贈るんだろうな。

 ……もしも、この分類できない「好き」って気持ちに、自由に名前をつけていいのなら。
 きれいな花束を贈りたいくらい「好き」だよって言いたいなあって、おれはひそかに、そう思った。

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