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【黄昏学園SS-9】虹霓

 風もないのにプールの水面が騒がしい。
 小虎が投げ込んだボールの余波が、ずっと残っているせいだ。

 プールサイドに座り込んだあたしは、広がっていく波紋を眺めながら、吸いさしの煙草に口をつける。
 煙を飲んで吐き出しても、味のない空気を吸っているのと同じ、からっぽの感覚がする。あたしは煙草を塗床にこすりつけて揉み消した。

 小虎は考えがすぐ顔に出るし、口にするのは心配や小言といった、いかにもあいつらしーお節介ばっかだし、何考えてるのか分かりやすかった。

 なのに、さっきのあいつは何だ?

 ふいに頭上で小さな音がした。首をのけぞらせて宙を仰ぐ。屋内プールの屋根の透明なポリカーボネートに、小さな水滴が落ちて流れているのが見えた。空は相変わらずバカみてーに晴れてるのに。

 天気雨か。
 あたしは胸ポケットからもう一本煙草を取り出して、ジッポを開いて火をつける。
 水はまだ揺れたままだ。


   ◆ ◆ ◆


 一ノ瀬から貰ったチュッパチャップスやらココアシガレットやらの甘い菓子で口寂しさを埋めるのは、結局1週間もしないうちに飽きた。

 あたしはラキストの箱を指でトンと叩いて、飛び出た一本を口に咥えてジッポで炙る。深く吸い込んで、開いた窓に向かって、ふーっと吐き出す。

 季節外れなほどあったかい11月の空気に、薄紫の煙が溶けていく。解決部部室の窓から見えるグラウンドでは、野球部が列を作って走り込みをしていた。

 キャッチボールはおもろいけど、試合に向けて練習を繰り返す、あいつらの根性論は真似できねー。あたしだったらぜってーヤダ。
 まぁ、目標に向かって努力する姿に感動しそうなお人好しは、解決部内にも何人かいそうだけどな。

 窓辺でひなたぼっこをする心地でぼんやりしていたら、背後でドアが開く音がした。

「なんだよ、一ノ瀬じゃん。お前がこっちに顔を出すなんてめずらしーな」

 ニットキャップに眼鏡の生徒会長サマに、首だけで振り返って声を掛ける。
 普段は生徒会室にいる解決部部長・一ノ瀬濫觴は、まるであたしが指に挟んでる煙草なんて見えていないような顔で、隙のない笑みをこっちに寄越した。

「織田君こそ、一人かい? 部室に顔を出すなんて珍しいね」
「べっつに。あたしは煙草吸いてーだけだし、吸えるならどこでもいいんだよ。解決部に協力してんのだって、煙草見逃す交換条件だろ」

 一ノ瀬は「そうだったね」と適当な返事をして、部室のスチール棚を物色し始めた。
 分厚いファイルを引き抜いてパラパラめくりだす。視線を書類に落としたまま「そういえば」と一ノ瀬が言った。

「塞翁君は、今日から登校しているみたいだよ」
「は?」

 声を上げたあと「なんでいきなり小虎の話になるんだよ」と付け加える。

 あいつガッコにも来てなかったのか。どーせ解決部に顔を出すのが気まずくて「申し訳ないっす~バイトで忙しくて~」とかごまかしてんだろって思ってた。
 一ノ瀬が顔を上げて、目だけであたしに笑いかける。

「織田君と塞翁君は、学生裁判で結託して一芝居打った、いわば戦友のような間柄じゃないのかい」
「あ? 戦友? あいつはそんなんじゃねーよ」
「そうか、それは失敬。なんにせよ彼がここ数日、病欠していたのは事実だ」

 完璧な微笑。一ノ瀬の、この余裕ぶっこいた表情がムカつく。
 だから小虎の話はあたしに関係ねーだろ、と言いかけたとき、ドアが開いた。
 ドアの向こうに、黒のウレタンマスクをした、ピンクメッシュ髪の男が立っている。
 小虎だ。

「あ……一ノ瀬さん、と、オダネネ……。ふ、二人とも、部室に来るなんて、めずらしいっすね?」

 部室を見渡すなり、上ずった声でつぶやく小虎。
 一ノ瀬が「ああ、塞翁君。身体はもういいのかい」と何食わぬ顔で尋ねた。

「あ、はい。ちょっと熱が出ただけなんで、もう万全っす」
「そうか、それは良かった。君にはこれからも、解決部部員として活躍してもらわないと困るからね。くれぐれも自愛するように」

 そう言うと、一ノ瀬は手にしていたファイルをパタンと閉じて、それを小脇に抱えて、小虎と入れ違いに部室を出て行った。小虎が「あっ、一ノ瀬さん……」と小さくつぶやいたみたいだけど、その声はドアが閉まる音に掻き消される。

 あたしと小虎だけが残った部室に、沈黙が落ちた。

 小虎は気まずそうな顔で、あたしから視線を逸らしたまま部室に入り、パイプ椅子に腰掛けた。
 あたしはいつの間にか長くなっていた灰を落として、また吸いさしに口をつける。

 小虎は視線をあちこちに泳がせながら、指を擦り合わせてもじもじしている。あたしに声を掛けたいけれど、きっかけがなくてできない、そんな顔だ。
 学生裁判で、あたしから視線をブラさなかった小虎とは、まるで別人。
 ……ああ、もういい、あの時のことは。知るか。小虎なんてせいぜい勝手に困ってろ。あたしは煙を勢いよく吐き出した。

 沈黙に耐えられなくなったのか、小虎はごそごそと自分のスクールバックを漁って、文庫本を取り出した。TSUTAYAのブックカバーのついたそれを開いて、真面目くさった表情で読み始める。文字だらけの本を静かに読むその様子は、ピアスとチェーンがじゃらついた、穴だらけの耳との落差がえぐい。

 あたしはあることに気付いて、窓のサッシに煙草を挟んだ手を預けた。

「おい小虎」
「っ、な、なんすか? オダネネ」
「お前逆だ、逆」
「え」
「本」
「……は!?」

 小虎は本をひっくり返し、上下が逆さまになったカバーを見て「うわぁ……」と目をまるくした。

「ぎゃはっ! お前、本を読むふり下手くそすぎんだろ!」
「へ、へへ……」

 小虎の目じりがへにゃりと下がる。
 もう用済みになった、沈黙を埋めるための文庫本をかばんにしまいつつ、小虎は「オダネネ、風邪ひいたりしなかったっすか」と聞いてきた。

「あ? 風邪? なんでだよ」
「いや、スプリンクラーでびしょ濡れになったから、大丈夫だったかなあって思って……」
「あたしはそんなヤワじゃねーよ。お前こそ何だよ、熱って。風邪かよ」
「いや、知恵熱っす。頭使いすぎて」

 こいつは子どもか?
 ……いや、それより何で、あれだけやりあったあたしの心配してんだ? こいつは。
 なんとなく据わりが悪い気がして、組んでいた足を組み変える。小虎はふいに、窓辺に座っているあたしから背後の景色に視線を移して「あ」と小さく声を上げた。

「天気雨」

 その言葉につられて窓の外を見ると、陽が射している野外に、いくつも銀の筋が落ちていた。グラウンドを走っていた野球部の部員たちが、あわてて軒先に逃げていく。
 雨はみるみるうちに勢いを増した。

 ざぁっと、雨が地面を叩く音。
 上階にまで上がってくる、土の匂い。

「……虹、出ないっすかね」

 雨音のせいか、輪郭がぼやけた声がした。
 あたしは短くなった煙草を揉み消して「そんなにぽんぽん出ねーだろ、虹なんて」と小虎に返す。
 部室に視線を戻すと、色素の薄い栗色の目が、あたしを見つめていた。

「賭け、します?」
「……あ?」
「おれは虹が出る方に賭けます。負けた方がコーラおごりで、どうっすか」

 小虎は必死で、ふざけた声を作っている。
 それなのに、顔はぜんぜんふざけてない。

「はっ」

 あたしは短く小虎を笑い飛ばした。
 そんな不安そうにするくらいなら、あのときの再演なんてするんじゃねーよ。


   ◆ ◆ ◆


 屋上には誰もいなかった。
 陽が照りながら雨が降るのは、銀のしずくがきらきら光ってキレイだ。
 ドアを開けるなり外に駆け出したあたしは、屋上のど真ん中で空を仰ぐ。髪に、ひたいに、肩に、手足に、ぶつかっては流れ落ちていく、雨。雨。雨。水のつぶてに叩かれるのはいっそ爽快で、笑いだしたくなる。あたしはこみあげる笑いを声に変えて、大きく「火事だー!」と叫んだ。
「火事じゃないっすよー」とうしろで小虎が笑う。

 二人とも、傘なんて気の利いたもんは持ってない。あたしは水溜まりを勢いよく踏みつけて、弾んだ息で、首を振ってあたりを見回した。屋上からは、箱猫市の街並みがミニチュアみたいに行儀よく並んでいるのが見えた。バカみてーに晴れた空には、雲がまだらに浮かんでるだけだ。

「虹出てねー! あたしの勝ちー!」
「えー。ほんとっすか? もうちょっとよく見ないと」
「負け惜しみかよ小虎! とっととコーラ買ってこい!」
「はいはい、買ってきますから! 蹴らないで!? もー」

 小虎はぶつくさ言いながら屋上から出て行って、コーラを二本抱えて戻ってきた。
「はい、コーラ」と赤い缶を差し出されて、煙草を吸いながら「おー」と受け取る。
 小虎はあたしから少し離れたところでマスクを下げて、顔を背けてコーラを飲んだ。

「天気雨、止んじゃいましたね」

 まるで好きなコンテンツが終わったみたいな口調で、小虎がしんみりつぶやいた。
 小虎がパシりに行ってすぐ、雨は止んだ。単なる上天気に戻った空。それでも雨に洗われたからか、空気は澄んでてみずみずしい。

 あたしは「んー」と適当な返事をして、煙を吐いた。
 煙草がうまい。今みたいな雨上がりとか、誰もいない夜明けとか、そういうすがすがしい空気のなかで吸う一本は最高だ。真っ白な雪に足跡をつけて回るみたいで、おキレイなものを汚すのが楽しい。

 ……そうだ。

「おい小虎」

 あたしが呼ぶと、コーラを飲み終わってマスクを戻していた小虎が振り返る。

「なんすかオダネネ」
「ちょっとこっちこい」

 手招きすると、小虎はきょとんとした顔で小首を傾げ、それでも言われた通りにやってくる。
 あたしはラキストの箱を振り、一本飛び出た煙草を小虎に差し向けた。

「お前も吸えよ」

 いかにも気軽な調子で誘ってやる。

 小虎の反応は簡単に予想できた。びっくりして目をまるくして「え、えぇ!? ……や、無理っす、嫌っすよ!」って、首をぶんぶん振って慌てるに違いない。
 困れ困れ。おもろいから。なんだかんだ言うのを無視して、むりやり一本押しつけて、あたふたする様子を楽しんでやるよ。

 目の前の小虎は、あたしが差し出した煙草を黙って見つめている。
 硬直してんのか? と思ったら、数度まばたきをしたあと、小虎は軽く目を伏せた。
 白い頬に淡い影が落ちる。
 こいつまつ毛長いんだな。
 小虎はおずおずとこっちに手を伸ばし、あたしが出した煙草を指先でそっとつまんだ。

「……じゃあ、一本だけ」

 ──は?

 煙草を抜き取った小虎が、背を向ける。
 しばらくしてあたしに向き直った小虎は、マスクをずらして、手で口を覆うようにして煙草を持っていた。フィルターを口に咥えたまま、あたしにためらいがちな視線をよこす。

「えと、火……」

 なんだこの状況。

 渡瀬のときは「は、はいぃっ!」って命令通りに煙草を受け取ったものの、両手で握って胸の前に突き出して「どうぞ火をつけてくださいっ!」とか、わめいてた。
 榎本のときは「ふむ、煙草か。探偵たるもの、こういうハードボイルドな物を嗜むのも悪くないな」とか気取ってたけど「それで織田君、これはどうやって吸えばいいんだ?」と着火側を覗き込んでいた。

 煙草はフィルターに口をつけて吸いこみながらじゃないと、火がつきにくい。
 小虎は自然にフィルターに口をつけて、火を要求している。
 ……こいつ喫煙の経験あるのかよ?

 あたしは黙って、金色の船が描かれた苗夏のジッポを、小虎の方へ差し出した。
 親指でフタを跳ね上げて、指を下ろす動きでフリントホイールを擦る。ジッという音と一緒に火花が弾けて、やわらかな炎がゆらりと灯った。

 小虎が首を傾けて、あたしが握るジッポに、咥えた煙草の先端を近づける。
 あたしの目の前、手を伸ばせばすぐ届く距離に、小虎がいる。

 あたしは視線を逸らした。煙草を挟んだ小虎の指が目に入る。男にしては華奢だけど、あたしより骨ばった白い指。指先には、きちんと切りそろえられた薄い爪がついている。
 こいつの爪、やわらかそうだな。
 そんなどうでもいい考えが頭をよぎって、コーラの泡のようにしゅわしゅわ弾けて消えていく。

 赤い火がともった。
 煙草に火をつけた小虎は、かがめていた身体を起こして、深く煙草を吸いこんで──
 げほっ! とむせた。

「……あ?」

 思わず低い声が漏れる。
 小虎はあたしに背を向けて、続けざまにケホケホ咳こんでいる。
 カーディガンの袖で口をぬぐいつつ、涙目で「やっぱだめ、けむい……」と泣き言を、ぽつり。

 あたしは思わず吹き出した。
 勢いよく「ぎゃはっ!」と小虎を笑い飛ばす。

「だっせ! 小虎だっせ!!」
「うー……仕方ないじゃないっすかー……」
 
 小虎がしょんぼりと肩を落とした。その顔は、情けない、いつもの小虎だ。
 あたしが笑いながらダセー困り顔を眺めていると、口を覆った小虎の手の隙間から、ふいに赤い舌先が見えた。
 小虎が、ぺろりと自分の唇を舐める。

「ん、でもこの煙草、香ばしいっすね。トーストみたいな味」
「……へー」

 たしかに、メンソールやフレーバーで味つけされた細くて軽いピアニッシモと違って、ラキストは重くて香ばしい、かもしれん。
 ……トーストの味か。

「前は、どんな味のやつ吸ったんだよ」
「んー……なんか、甘ったるくて、どっしり重くて、強烈なやつっす」
「ふーん。何て銘柄」
「えっと……確か、ブラックストーン・チェリーって名前の」
「うっわ、リトルシガーじゃん。そりゃ葉巻は重いわ」

 誰から貰ったんだ? とは聞かなかった。
 代わりに「お前、普段はあれこれ口うるせーのに、煙草吸うのはなんも言わねーのな」と言った。

 たっぷりと煙を吸いこんで、ゆっくりと吐き出してもまだ余る、そんな沈黙がふいに降りる。
 小虎はあごに下げていた黒マスクを元に戻した。もう吸わない煙草を親指で軽く弾いて、白い灰を地面に落とす。
 ややあって、囁くような声がした。

「……月並みっすけど、人生ほんとに、いろいろあると思ってて」

 あたしは横目で小虎を見る。
 煙草に視線を落とす小虎の眼は、きれいに澄んだ栗色だ。

「きちんと産んでもらっても、ぶつかったり、ころんだりして、生きてくうちに歪んでいって……。でも、人生はとても長いから、どうにかこうにかごまかしながら、歪んだまんまで歩くしかなくて」

 小虎がまた、煙草の灰を落とす。

「そんなとき、自分をだましてくれるものがあるから、なんとかやっていけると思ってて。おれをだましてくれるのは、文学だったり、音楽だったり、映画だったりするんすけど……。おれには合わないけど、きっと煙草も、いろんな人のごまかしの手段なんすよね。だから……」

 否定したくなくて。
 小虎はそっと、そう言った。

「……でも、身体に良くないのも本当だから」

 小虎は持っていた煙草を地面に押しつけて、空になったコーラ缶に吸い殻を入れる。

「吸いすぎないで、元気でいてくださいね。オダネネ」

 小虎が、あたしに向かって目じりを下げた。

 先に部室に戻るっすね。小虎はそう言い残して、屋上の扉を開けて、姿を消した。
 あたしは吸いさしの煙草に口をつける。すぐに小虎の後を追う気にはなれなかった。

 やっと火の始末をして、屋上階段を降りようとしたとき、ポケットのスマホが鳴った。
 取り出して通知を見る。苗夏からだ。通知をタップしてLINEを開くと、一枚の写真と短いメッセージが目に飛び込んできた。

「ねーちゃん、さっきのコレ見た? もし見逃してたらアレだから、おすそわけ~」 

 箱猫の街並みの上、空にかかる虹の写真。
 ……虹は出てたんだ。あたしが見つけられなかっただけで。

 賭けは、小虎の勝ちだった。


   ◆ ◆ ◆


 煙草を始末して、屋内プールを出て、廊下を歩く。
 廊下の窓辺には、スマホを持った奴らがウジャウジャたむろしていた。

「天気雨だし虹出てないかなー?」「えーん、見つかんないよ〜、見つけたら幸せになれるらしいのにぃ」とか何とか、ごちゃごちゃ言ってるのが、嫌でも耳に入ってくる。

 虹を見つけたら幸せになれるなんて、ずいぶんめでたい考えだな。
 あいつも幸せのおこぼれに預かりたくて、あのとき虹を探してたのか?

 違う。
「綺麗だから」とか「嬉しくなるから」とか、そんな単純でくだらねー理由だったりするんだろうな、あいつは……。

 そこまで考えて、ばかばかしくなる。なんで言いたいことだけ言って逃げ出した腰抜けのことを、いちいちあれこれ考えてんだ、あたしは。

「おれだって、傷つく時はあるのに」

 ──なんでそうなるんだよ。
 去り際の小虎の一言の意味が、ずっと分からずにいる。

 窓辺ではしゃぐ奴らを無視して、あたしは教室に向かった。

 心に積もった灰は、さっきプールに浮かんでたよりなく揺れていたボールみたいに、ずっと行き場を失ったままだ。

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