【黄昏学園SS-15】金魚迷宮
まるで水の底にいるみたい。
迷宮内部には、手のひら大の白い金魚が群れ泳いでいた。虹色の鱗をきらきら光らせて、花嫁のヴェールみたいな半透明の尾びれを、ふわふわ優雅にたなびかせて。
幻想に酔ったのは一瞬で、あたりを見回すと、薄あまい気持ちは吹き飛んだ。灰色のビルディング、都会とも田舎とも言えない、中途半端に栄えた街並み。見覚えのある建物の群れに、ここが箱猫市だって気付く。
周りにいる誰も、空中を泳いでいる金魚を気にしてないのが不可解で、私はそこら辺を歩いていた奴をとっ捕まえて「あの金魚、何?」と聞いた。
外回り中なのか、半袖シャツにネクタイを締めたサラリーマンは、ぽかんと馬鹿面を晒して、私に答える。
「今さら何言ってるんだ? ずっと前からこうじゃないか」
──これが迷宮。
コトから聞いてはいたけど、ほとんど怪奇現象の世界だ。
薄気味悪いけど、見知った街が舞台の迷宮なら動きやすい。私は遠く聳えるランドマークを目印に、街路を歩きだす。私が動くたびに、空の金魚も敏感に反応して、私から逃げるように回遊する。
「成程、人探しの依頼ですか」
辿り着いた四月一日探偵事務所で、くたびれた四十縺れのオッサンが、私の言葉を反芻した。
「報酬は惜しまないから、急いで」とたたみかけると、オッサンは哀れなものを見るような視線を向けて「まあまあ落ち着いて。善処しますから」と私を宥めた。ムカつくけど、頼りの綱をブッ飛ばす訳にもいかない。早々に契約を締結して、探偵事務所を後にする。
SIMフリーのスマホをレンタルして、手近なコーヒーショップに入り、Wi-Fiを使ってトーリの名前を検索してみる。
私のスマホは迷宮産じゃないから、迷宮の情報を拾えない可能性を考慮してのことだ。
現実と同じように、Googleの検索画面は、有栖川桃李の名前と、過去にトーリが関わった事件の報道しか出してこない。肩透かしを食らった私は、思わずガリッと爪を噛む。誰に向けることもできない罵詈雑言を、ブラックコーヒーで腑の奥へと流し込んだ。
環状線の電車内で、浅い睡眠を取る。仮眠を取って夜を待って、暗澹とした闇を掻き分けて、黄昏学園高等部の職員室に忍び込む。
携帯ライトの一縷の灯りを頼りに生徒名簿を漁っても、トーリの名前は見つからない。乱雑に散らかった紙の海はそのままに、私は学校を後にした。
私の住処──箱猫マンションの501号室には、見ず知らずの人の生活の灯りが漏れている。マンションのすぐ側の公園のベンチで、マックバーガーを齧りながら、現実では自分の部屋だった空間を見上げる。
夜になると、空中を泳ぐ金魚は、朧月みたいにぼんやりと発光した。
ぼうっと淡い光の群れを眺めながらバーガーを食べていると、手の届く距離まで金魚が降りてきた。バーガーのバンズを毟って、手のひらに乗せてみる。白い金魚はしばらく興味深げに私のまわりを泳いだあと、やがて私の手のひらの上に、ふわりと舞い降りた。
くすぐったさが手のひらを掠めて、パンくずが消える。パンくずを食べ終えた金魚が、まるでじゃれつくように、半透明な尾びれで私の手を撫でる。
ふ、と笑いが漏れた。
張り詰めていた肩の力が抜ける。
「……可愛い」
大して食欲もなかったから、私はバーガーのほとんどを金魚にあげた。
私の手に薄明るい金魚が集まるさまは、無数の雪洞を手に持って歩く、雪灯りまつりを想起させた。あの地元の祭も、うんと小さい頃に行ったきりだ。
白虹色の身体に手を伸ばして、そっと撫でてみる。金魚はひんやりすべすべしていて、まるで体温を持たない蛇みたいで、冷たい手触りが心地良かった。
──それから私は迷宮でトーリを探し続けた。
ここに来てからの日数を数えるために、指を折るのにも飽きてきた頃、スマホの着信音が鋭く鳴った。
「残念ながら、探し人は箱猫市内にはいらっしゃらないようです」
四月一日探偵事務所で、ノースリーブを着た若い女が、淡々と捜査結果を口にした。
……つまり、箱猫しか存在しないこの世界には、トーリはいないということだ。
私は椅子を蹴って、報告に続く慰めの常套句を打ち切り、探偵事務所を飛び出した。
黄昏時。塒にしている公園に着く頃には、息が切れて、喘鳴みたいなみっともない呼吸になっていた。早鐘を打つ心臓を掻きむしって「あは、ははっ!」と笑い声を上げる。
食事のたびに餌付けしていた金魚が、ふわふわと鰭で私の指を愛撫して、いつもの食事のおこぼれを催促してくる。
私は笑声を止めて顔を上げた。
白い金魚は斜陽を受けて、薄紅色に染まっている。
赤い色。私の嘘の色。私の嘘が未解決を産んで、未解決がこの世界を産んだ。
なら、この世界を終わらせる方法なんて、分かりきっている。トーリのいないこの世界に、これ以上用がある筈もない。
私は息を吸い、空を泳ぐ金魚に向かって叫んだ。
「──金魚を殺したのは、私!」
優雅に泳いでいた金魚が、揃って凍りついたように動きを止める。
次の瞬間、射竦めるようなぎょろりとした視線が、私に集中した。
金魚が、怒りを体現するように、ぶくぶく膨れ上がっていく。口蓋に鋭い牙が生える。
残照、血が滲むような赤い世界で、痘痕だらけの金魚が、狂ったように私に襲い掛かってきた。
私は携帯していた伸縮式のポリスバトンを抜き、振り伸ばした勢いのまま、異形の金魚を殴打した。鈍い手ごたえと共に、金魚がびちゃりと地に堕ちる。
それを目で追う暇もなく、鋭い痛みが足を貫く。足に金魚が喰らいついている。私はバトンの柄を振り下ろし、牙を立てた金魚を叩き落す。二匹仕留めた後で顔を上げると、金魚があちらこちらから寄り集まり、私にうようよと群がってくるのが見えた。
払い除けるのも追いつかず、腕に、手に、足首に、金魚の牙がめり込んでいく。私は歯を食い縛り、金魚を次々と叩き落す。肉を穿つ鈍い感触が手のひらに伝わる。気持ち悪い。人間を叩く感触の方が数倍もマシだ。
仲間を叩き落しても叩き落しても、金魚は私に群がってくる。これは報復だ。現実世界で金魚を殺した、私への。
足もとに叩き落とした金魚の死体が積み重なった頃、赤く染まった黄昏の空から、はらはらと雪が降りはじめた。
──ううん、これは、翳だ。
世界を終わらせる白い翳。
迷宮世界が崩壊するときに降り積もっていく、白い翳。前にコトがそう言っていた。
喉がひゅうひゅう鳴り始める。喘息の発作だ。けれど手を止める訳にはいかない。抵抗を止めたら金魚に食い殺される。
細い管で酸素を取り込むような息苦しさを噛み殺し、私は金魚を殺し続けた。
仲間を殺した私を殺しに掛かる金魚の行動に、反論の余地はない。でも、私は、トーリを見つけるまでは死ぬ訳にはいかない。
バトンを振るい、復讐の覚悟を踏み躙る。
私の血と、金魚の血と、夕陽の紅が混じって、世界が赤い。ふわふわと落ちる翳は、それを嘲笑うかのような、穢れのない純白だ。
はやく白く染まれ。
トーリのいない世界なんて、白く染まって、今すぐ終わってしまえ。
胸中で繰り返す言葉は、祈りに似ていた。
神様なんて、信じないのに。
教会の穹窿天上、そこに昇る賛美歌、金魚の鰭のようなヴェール、祈りのかたちに組まれた手。昔の記憶の断片が、万華鏡のように煌めいては消えていく。
「……迷宮の終焉はね、おれ達の故郷の冬によく似てたよ」
息も絶え絶えになった傷だらけの私の脳裏に、コトのやわらかい毛布みたいな声が、ぼんやりと淡く甦る。
──ほんとだね、コト。
迷宮世界の終焉は、
白森の雪景色に、よく似てる。
◆ ◆ ◆
「どうしてこんなことをしたんだ」
眼鏡の奥の瞳が、剣呑な色を帯びる。
一ノ瀬先輩に詰問された私は、包帯の巻かれた手で椅子の縁を握り締めて笑う。
「榎本先輩宛に掲示板に書いた通りですよ? 私、迷宮に迷い込んだかもしれない人を、ずっと探しているんです♡」
「そのためなら、迷宮を作ることも厭わないと? 君は、魔女と勘違いされても仕方のない選択をした。いくら迷宮を消したとはいえ、解決部部長として、君の行動は看過できない」
金魚を殺しているうちに気が遠くなって、気づいたら私は黄昏学園の放課後の教室に戻っていた。私を探していたコトに見つかって、病院に担ぎ込まれて、手当てを受けて、大事を取って数日入院した後、復学したその日の内に、私は解決部の部室に呼び出された。
冷たい視線に晒されて、まるで本当に異端審問を受ける魔女になったみたいだ。
ふと、私をぐるりと囲んでいる顔ぶれが、上級生ばかりなのに気がついて「……一年生は?」と一ノ瀬先輩に尋ねてみる。
「ここにいるのは古参ばかりだ。新参を不安にさせる訳にはいかないからね」
……ということは、間宮は来てないんだ。
何度罵っても明るく返信してきた間宮に、軽蔑の眼差しを向けられるのは、少しキツいと思ってたから、肩の力が抜ける。
私は不敵な表情を繕って、一ノ瀬先輩を睨み上げた。
「……自分の目的の為に迷宮を広げるのが魔女だって、一ノ瀬先輩は迷宮依頼のチュートリアルで説明していましたよね? 私の目的は迷宮を広げることじゃなくて、あくまでも現実世界から迷い込んだ人探しなんです♡ あんなまやかしの世界なんて、私、興味ありませし、迷宮と一緒に心中する魔女になるなんて、御免ですから」
「口だけならどうとでも言えるさ。真にその人を表すのは、結局は行動だ」
「あ、あの……一ノ瀬さん……」
丁々発止のやりとりに、弱々しい声が紛れ込む。
この声は、コトだ。
コトは私を庇うように、一ノ瀬先輩との間に立った。
「蓮が人探しをしてるのは本当です。そもそも蓮が迷宮に興味を持ったのも、もしかしたら探し人が迷宮に迷い込んだのかも、って、おれが迂闊なことを言ったからで……。ごめんなさい……」
コトが頭を下げる。
顔を上げたコトは、必死に一ノ瀬先輩に言葉を連ねた。
「……今回の迷宮を発生させてしまった件も、きっと探し人がいるかもしれない迷宮に行きたいあまりに、思いついたことだと思うんです。おれが、もう二度とこんなことしちゃ駄目だって、よくよく蓮に言って聞かせます。だから……」
「塞翁君、君の言葉も当てにならない。君が花室君と手を組んで、謀をしてないとは言い切れないからね」
「え……」
コトが栗色の眼を見開いた。
衝撃が哀しみに変わって、コトの瞳の膜が揺れたとき「おい」と短い呼び掛けが、群衆から矢のように放たれる。
「最近イライラしてんのは勝手だけどさ、小虎にまで当たることねーだろ、一ノ瀬」
ポニーテールの小柄な女子を、コトは「オダネネ……」と呼んだ。
……ああ、この人が織田寧々なんだ? 話には聞いてたけど、顔を見るのは初めてだ。
織田先輩は気まずそうにコトを一瞥して、一ノ瀬先輩を三白眼で睨む。
「あたしのダチを悪者あつかいすんなよ」
……ダチ?
それって、友達のこと?
──コトと、織田先輩が、友達?
一瞬頭が真っ白になって、次の瞬間、激情に支配される。
感情の箍が外れて、喘息の発作みたいに「きゃははははっ!」って甲高い笑い声が上がって、止まらない。
「コト、あんた友達なんか作ってたのぉ!? おっかしーの、大切な人を作る資格なんてないって、ずっと自分で言ってたのに!! 箱猫で人探しどころか、ぬくぬく友達ごっこしてたんだ!? うっける!!」
ひとしきりコトを笑い飛ばして、私は椅子を蹴って立ち上がった。つかつかとコトに近付き、蒼褪めて立ち尽くすコトのマスクをむしり取る。コトの頬を両手で挟んだ時、やっと何をされるか察したのか、コトは「蓮、やめ……っ!」と初めて抵抗した。制止の声も反抗も無視して、身体を押さえつけて、煩く声を上げるコトの口を、唇で塞いでやる。
「ん……っ!」
整髪料とシャンプーの匂いが、鼻腔を掠めた。重なったやわらかさを引き剝がして、私はコトを床に投げ捨てる。無様に床に倒れたコトは、呆然と目を見開いて、微動だにしない。
「ふふっ、いい顔」
そう吐き捨てると、コトの眼は、みるみるうちに潤っていった。
唇を抑えて、ぽろぽろ涙の珠を零すコトを見下して、私はここにいる全員に聞こえるように、大声で言う。
「コトは、私の奴隷なんだよね♡ ね、コト?」
言い終わるや否や、ぱんっ、と乾いた音が、部室に響き渡った。
頬がじんと熱い。この熱感は痛みなんだと気づいて、私は頬を張った人物を睨みつけた。
時代錯誤な男物の学帽の下で、澄んだ紫の瞳が、射貫くような鋭さで私を見据えている。
「私の友達に何をする」
──榎本沙霧。私の依頼でただ一人、真実を見抜いた先輩。
友達、友達友達友達友達。
激情で頭がおかしくなりそうだ。
反射的に彼女に掴みかかった私を、誰かが背後から羽交い絞めした。「花室さん、落ち着いて!」と背後から聞こえる男の声に「離せ!!」と反論する。「樋口先輩」と心配そうに呟く、見知らぬ傍観者の女子の声が煩わしい。
顔を上げてあたりを見回すと、コトに手を貸す榎本先輩、蒼褪めて立ち尽くす織田先輩、眉を顰めて私を見据える一ノ瀬先輩の姿が目に入る。
私の味方なんていない。
全員、敵だ。
そんなこと、とっくに分かってる。
……分かってたのに。
遠雷が聞こえる。
私の喉から、不穏の兆す音がする。
トーリ。トーリ。樋口先輩に抑えつけられた私は、喘息の発作に顔を顰めながら、心のなかで、何度も彼の名前を呼んだ。
繰り返し、繰り返し。
祈りみたいに、お守りの言葉みたいに。
桃李。
ただ一人、私を理解してくれた、桃李。
どこにいるの?
会いたいよ。
ねぇ、会いたいよ、桃李。
……一体、どこにいっちゃったの?
私の大好きな、お兄ちゃん。
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