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【黄昏学園SS-3】熱があるので休みます

 オダネネとの学生裁判がひと段落したその夜、スプリンクラーの水でびしょぬれになったおれは、家に帰るなり玄関先で倒れてしまった。

 伊織姉ちゃんと弟の竜希に「帰宅してドア開けたら半死体が転がってるとかホラーだから、倒れるにしてももうちょっと場所を考えろ」と、どやされたのはゆうべのこと。

 朝になっても38.1度と熱が下がらないので、学校に病欠の連絡を入れて、リビングのソファーの上でまるくなって、またウトウトと睡眠をむさぼる。

 18年も付き合っているので、自分の身体のことはだいたい分かっている。
 過剰なストレスにさらされる、もしくは脳に慣れない負荷がかかると、おれは知恵熱を出す。

 普段あんまり頭なんて使ってないくせに、やたらと頭の回転の速いオダネネと喧嘩だの駆け引きだのをして、おまけに学生裁判そのものを止めなければいけないというプレッシャーもあったから、ことが終わるなり頭がパンクしてしまったのだろう。

 むしろ途中で音を上げずによく頑張った。えらいぞおれの脳。

 目が覚めると、窓辺にあたたかな橙色の光が射していた。黄昏時だ。時計を見ると、時刻は16時をまわっていた。

 汗をかいてしまったので、ぼーっとしたまま脱衣所へ行って、インナーを替えて、その上からもう一度黒のスウェットのパジャマを着て、リビングに戻る。

 冷蔵庫に入れておいたポカリスエットの500mlペットボトルは、持つと熱くなった手のひらが冷やされてきもちいい。
 ふたを開けてポカリを飲みながらソファーに戻り、ついでにからからになっていた冷えピタを、リビングテーブルの上に置いておいた新しいものと貼りかえる。

 なんとなくテレビをつけると、普段はバイトだの解決部だので見ていなかった時間帯に放映されている、箱猫市のローカルニュース番組がやっていた。
 この秋一番の冷え込みです、とマフラーとコートを着込んだお天気お姉さんが、白い息を吐きながらしゃべっている。

 そういえば一緒にスプリンクラーの水でびしょぬれになったオダネネは、風邪ひいたりしてないかな。元気だといいけど。
 そんなことを、マフラーを巻いたひとを眺めながら考える。

 差し込んだ体温計が鳴る。37.5度。だいぶ下がった。
 明日は学校いけるかな。きのうと今日はたまたま休みだったけど、明日はバイトだって入ってる。

 玄関先から、ガチャリとドアが開く音がした。ドスドスと床を踏みつけるように歩く、この足音は弟の竜希のものだ。もう中学校が終わる時間なのか。

 リビングのドアが勢いよく開く。
 短く刈った金髪と、伸びかけの黒髪がまざった頭の竜希は、なんだかおれより虎っぽい。
 竜希はおれをジロリとにらんで、リビングテーブルの上にコンビニのビニール袋を投げた。

 いつものように嫌がらせで「ゴミ出たから捨てとけ」とか言われるのかなあと考えていたら、竜希は鼻をフンと鳴らして、普段では考えられないようなことを口にした。

「やる」
「……ん?」
「だーかーらー、それやるっつってんだ、クソ小虎」
「ええぇ」

 あわててビニール袋をガサガサ開くと、なかからプッチンプリンが出てきた。
 容器だけじゃない。ちゃんと中身も入ってる未開封のものだ。

「竜希、これおれにくれるの」
「いらねーのかよ」
「あっ、いる。食べます」

 嬉しくてつい、にへらと笑うと、竜希はふいと顔をそむけて、おれの足に数度蹴りを入れて、リビングを出て行った。
 我が弟ながらかわいい。下手に手を出したら噛みつく野生の動物みたい。

 プッチンプリンを抱えてキッチンに行って、スプーンと白い平皿を出す。この特別なプッチンプリンは、やっぱり逆さまじゃなくて、正しいプリンの向きにプッチンしてから食べるべきだろう。

 ふたを開けて、花形の容器を皿の上にひっくり返し、ツマミ棒を折る。
 ぷるん、とカラメルが上にかかった向きで、プリンが出てきた。

 リビングテーブルに持って行って、すこしずつスプーンですくって、だいじに食べる。プリンのあまさは、熱でばかになった舌にもやさしい。

 そういえば、ほとんどまる一日寝てて何も食べていなかったな、と気づいた。

 プリンを食べ終えて、すこしだけ頭に血がめぐるようになったおれは、かばんに入れたままだったスマホをごそごそと出した。
 電池は残量不足で赤表示になっていたし、通知がいくつか溜まっていたけれど、おれは真っ先に解決部の掲示板のアプリを開く。

(他の学生裁判はどうなったんだろう)

 おれの心配をよそに、タップした掲示板にずらりと並んでいたのは【解決済】の文字だった。
 ニノマエくんとベネットさん、有栖川さん、榎本さんが、それぞれ学生裁判を終結させたという報告を書き込んでいる。

 自分とオダネネのことで手一杯で、他の案件はまったくフォローにまわれなかったけれど、みんな見事に事件を終幕に導いていたと知って、おれはほっと胸をなでおろした。

(榎本さんのこと気がかりだったけど、大丈夫みたいだな)

 彼女の書き込んだ報告に視線を落とす。

 最後におれと会ったときに『私と織田君は友達ではないのだろう』と言っていた榎本さん。その論理的な考え方に驚いて、自分と他者との線を引ききれなくなって動揺したおれとは対照的に、彼女の報告はいつものように、冷静で理路整然としたものだった。

(でも)

 すべてが終わってから思い返してみると、わずかな疑念が頭をもたげた。

 ──言葉通りに受け取ったけれど、榎本さんはあのとき、本当に本心を口にしていたんだろうか。
 おれが彼女だったら、いくら理知的であってもつらいと思う。

 それに榎本さんはああ見えて、誰かに迷惑をかけないよう、隠しごとをするのが上手い……ような気がする。

「むむ……」
「何うなってんのよ小虎」
「うわあ」

 突然背後から声をかけられて、おれは飛び上がった。
 振り向くと、肩まで伸びたミルクティー色の髪をいじる伊織姉ちゃんがすぐそばにいる。

「ね、姉ちゃん、いつからそこに」
「ついさっき普通に帰ったっての。あんたがスマホに夢中で気づかなかっただけじゃん」

 あわあわするおれをよそに、伊織姉ちゃんは「つーか」と眉をひそめて表情をけわしくする。

「あんた、知恵熱出して学校休んでるんでしょ。ったく、熱下がるまでこれは没収!」
「あっ」

 おれのスマホを取り上げて、伊織姉ちゃんはスカートのポケットにそれをしまい込んだ。
 ずるい。そんなところにしまわれたら、無理に取り返せない。

 伊織姉ちゃんはそのままキッチンに行って、作業台の上に置いたエコバックから食材を出して、冷蔵庫や保管庫に収納しはじめる。

 いつも大学の帰りにスーパーに寄って、買い物をして、ごはんを作ってくれる伊織姉ちゃん。めずらしくおれも家にいるのだから、ちょっとでも手伝おうかと思ってキッチンに行くと「いいからあんたは寝てな」と視線もよこさずに断られた。

「あんたの夕食おかゆにするけど、梅とたまごとオムがゆ、どれがいいの」
「んー……オムがゆ」
「そう言うと思った」

 伊織姉ちゃんが大口を開けて、勝ち誇ったように笑う。

 オムがゆは、塞翁家のオリジナルレシピ……というほど大層なものでもないけど、たぶんウチだけのローカル飯だと思う。
 鶏ガラスープでつくったおかゆに、半熟オムレツを乗せて、ケチャップをしぼる。見た目は悪いけど、けっこう美味い。

「……っていうか、今日買ってきた食材、いつもより少なくない?」

 エコバックを置いた作業台と冷蔵庫を行ったり来たりする姉ちゃんにそう言ったら「最近ちょっと太ったから、あたしの食事だけは量を減らそう思って」と返された。

「え、なんで。姉ちゃんそのままでじゅうぶん可愛いのに」

 おれがそう言うと、なんかすごい目でにらまれる。

「……おい小虎。あんた、学校の女子にそんなこと言ってないでしょうね」
「へ? い、言ってないけど……え、だめ?」
「天然かお前は! いやちょっと天然だったわ! とりあえず誤解されるから、それは禁止!」
「ええぇ……」

 じゃあどう返すのが正解なんだろう。
 伊織姉ちゃんに尋ねたら、案の定「そんなの自分で考えろ」と突っぱねられた。

 おれは細い子を見ると、ちゃんとごはんを食べてるのか心配になる。それもあって、人に食べ物をおごるのが好きだし、美味しそうに食べている人を見るのが好きだ。

 多少ふっくらしてても、それはそれで可愛いと思う。高校生のころの伊織姉ちゃんだって、ちょっとお餅っぽくて可愛かった。一度姉ちゃんにそう言ったら半殺しにされたから、もう二度と言わないけど。
 
 女心ってむずかしい。

 三人で夕食を食べて、少し休んでから軽くシャワーを浴びる。
 ピアスを外して、消毒液をひたしたコットンで、ピアスホールを消毒する。おれは熱が出ると耳も腫れやすいから、いつもより丁寧に耳をぬぐう。

 歯磨きをして、冷蔵庫からペットボトルの水を出して、それを持って階段を上がる。

 二階のつきあたり、好きな本やDVDやCDを詰め込んだ、おれの部屋。

 カーテンも窓も朝から閉めきったままだったので、空気を入れ替えるために窓を開ける。
 外の空気は冷たくて、冬の夜のにおいがした。冷えピタのメントールが残るおでこに、ひんやりとやわらかい風が心地よい。

 この秋一番の冷え込みです、と言っていた夕方のニュースを思い出したけれど、それでもなんとなく窓を閉める気にはなれなかった。

 窓は開けたままで、セットコンポの電源を入れて、ワイヤレスのヘッドホンをつけて、ローファイを聞きながらベッドに寝ころぶ。

 照明を切った部屋は、コンポの液晶の青い光のせいで、まるで海の底にいるような気分にさせる。
 窓の外のマンションやビルから漏れる灯りをぼうっと眺めるのが、おれは昔から好きだった。

 いつもの癖で、寝ころびながらベッドボードの上をさぐる自分に気づいて、苦笑する。
 そうだ。スマホは伊織姉ちゃんに取り上げられていたんだった。

 ……いつからだろう。ベッドボードに置いた、充電中のスマホの小さな赤い光が、海から見える灯台の光のように感じはじめたのは。

 もしかしたら、解決部に入って、おれは少しだけ変わったのかもしれない。

『……あたしと取引しよ。何があっても一生、名乗り続けてよ。誰とも友達でいる資格がないってことを』
『お安い御用っすよ』

 あの学生裁判のとき、おれはオダネネの取引に即答した。
 でも、本当は一瞬だけ、おれは返事を躊躇した。

 いつものおれなら、まだ友達に未練があるのかと、自分が気持ち悪くなっていただろう。
 でもあのときは、返事を躊躇した自分が嬉しかった。

 ──取引したら、これから先、解決部の人たちに友達になろうって言われても、絶対に断らなきゃいけない。
 断ったら、相手は傷つくかもしれない。
 傷つけたらどうしよう。

 そんな、もしもの未来を描けるくらい、いつの間にか家族以外のひとを身近に感じていたことに気づいたんだ。

『ありがとう』

 おれと真正面から向き合って、本音を口にしてくれて。
 おれの近くにいてくれて。

 スプリンクラーでびしょぬれになりながら、オダネネに打ち明けた感謝の気持ちは、彼女の耳にはきっと届いていない。
 届かなくて良かったと、そう思う。

 ──レースのカーテンが風にそよいで、クラゲのようにふくらんだりしぼんだりしている。
 海の底に横たわったおれは羽毛布団をたぐりよせ、それにくるまって目を閉じた。

 まぶたの裏には、人々の営みの灯りが残像になって焼きついている。

 小さく流れている音楽が遠のいていく。
 おれは海の底へ沈むように、あっという間に、深い眠りへと落ちていった。


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