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【黄昏学園SS-10】蓮下の泥、泥中の虎

 まどろむような陽気の、日曜日ののどかな昼下がり。竜希は今ごろ、青空の下でバットを振っているだろう。
 伊織姉ちゃんは夕方には戻るって言って、車で出かけた。もしかしたら、デートかも。

 みんなが出掛けた塞翁の家で、おれは一人、自室にこもる。
 デスクチェアに座って、スマホを握りしめて、LINEにメッセ―ジを打ち込んだ。

「今なら、家に誰もいないから大丈夫」

 ほどなくして、着信音が鳴り響く。掛かってくることは分かっていたはずなのに、身体がびくりと反応する。

 おれは深く息を吸って、自分とスマホのあいだに見えない壁があることを想像して、息を吐いて、そっとビデオ通話の応答ボタンをタップした。

「……もしもし」
「コト、連絡おっそい。……あー、うつむかないで。よく顔見せて。……ふふ、相変わらずなっさけない顔」

 開口一番で罵られても、おれは何も反論できない。
 スマホの画面には、青白い顔をした女の子が──おれのよく知るれんが映っている。大きな瞳の下には、黒いクマがべったりとへばりついている。4年前から、ずっとそう。4年前に、性格も変わって、表情も変わって。変わらないのは、右目の下のほくろと、こんなに顔色が悪くても、整ったつくりの顔立ちだけ。

「ここ最近さぁ、ネットもテレビも学校でもどこでも、バレンタイン、バレンタイン、バレンタイン、バレンタイン! うっるさかったなぁー。ほんっと終わってせいせいした。モテない男子が私に向ける、べったりした生ぬるい視線とか、心底気持ち悪かったし。お前なんかとは何もありえないって察しろよ。底辺は底辺らしく、虫みたいに地面だけ見つめてろっての。チョコは甘くていいよね。ハートのかたちもカワイイし」

 おれから視線を外して、自分の爪に視線を落としながら蓮が言う。蓮の髪と同じ、群青色に彩られたネイルが画面に映る。
 蓮の話題は突然コロコロ変わるけど、おれはただ「うん」と相槌を打つ。

 蓮が、爪からおれに視線を移す。
 光を吸い込むような、昏くて空虚な瞳がこちらに向く。

「コトは、貰ったの。愛の告白とか、チョコとか」
「……貰ったよ」
「へえ。いくつ?」

 おれは視線を宙に浮かせて、貰ったチョコのことを思い出す。

 ……榎本さんがくれた義理チョコ。依頼の報酬と、助手の合格祝いを兼ねたものだって言っていた。まさか榎本さんからチョコを貰えるなんて思ってなかったから、飛び上がるくらい嬉しかった。

 それから、卜部さんの手作りチョコ。「本命チョコですよ! 好きです、小虎先輩!」って想いをぶつけられて、びっくりしてかたまってしまったけど、そのまっすぐな気持ちは、おれにはもったいないくらいまぶしくて、光栄だった。

 つられて、みんなで食べられるように解決部の部室に置かれていたお菓子のことを思い出す。

 雨森さんの手作りクッキー、虎型があって嬉しかったな。サクサクしてて、あまくて、おいしかった。

 柊さんの手作りチョコブラウニーもおいしかった。思わず、数があまったことに感謝したくらい。

 有栖川さん、五十鈴さん、病院坂さん、風切さんは、解決部の仲間みんなに、ひとつずつチョコレートをくれた。

 そういえば、オダネネからは何もなかったなあ。当然といえば、当然なんだけど。

 ……どうしてだろう。面と向かってチョコを渡してくれた人は他にもいるし、シューズボックスや机に、チョコと手紙を入れてくれた人だっているのに。おれはさっきから、解決部の仲間のことばかり思い出している。

 おれはひととおりバレンタインの日のことを思い出して、蓮に貰った数を報告した。
 聞くなり、蓮は「きゃはははは!」と甲高い声を上げて笑いだす。

「コトの本性を知らないバカ女がそんなにいるの!? おっもしろ! コトは顔だけはいいもんね! それでみんなを騙して、箱猫でのうのうとやっていってるんだ!? うっける!!」
「み、みんなはバカなんかじゃ……!」
「は? なに私に反論してんの? 奴隷のくせに」
「……っ」

 蓮の唇から放たれるのは、いつだってどろどろの憎しみがこもった毒だ。
 分かってる。蓮がおれにこう言いたくなる気持ちも、おれがそう言われて当然の存在だってことも、全部。
 それなのに、おれの胸は、何度だって痛くなる。

「で? チョコ貰って? 告白されて? 誰かと付き合うの? コトは」
「……付き合わないよ。全部、断った」
「ふふ、当然だよね〜? コトは私の奴隷だもん」
「……ん」
「それなら、ほら。いつものように、ちゃんと口に出して言って?」

 蓮のあまい猫なで声が、おれの背すじを震わせる。
 ……嫌だ。こんなこと言いたくない。

 言葉に詰まっていると「コト? 言えないの? 自分の立場、分かってる?」と、蓮のとがった声がおれを突き刺してくる。

 おれは、机の下でぎゅっとこぶしを握り締めた。
 からからになった口を無理やりこじあけて、喉から声を絞りだす。

「……おれの手足、指先、頭のてっぺんから、つま先まで、全部。おれの全部は……蓮のものだよ」

 こんなこと、好きでもない女の子に言ってる自分が気持ち悪い。
 吐きそう。

 おれの自己嫌悪をあざ笑うように、蓮は「うん。分かってるなら、いいの」と、やわらかい声を出して、薄紅色の唇を三日月のように持ち上げる。
「それじゃあさ」と蓮は言って、組んだ手に顔を預けて、夢見るように目を細めた。

「今日も私に聞かせてくれる? コトがこの1ヶ月、箱猫市でトーリのことをどう調べたのか。私の奴隷で、私の手足なんだもん。ちゃんと調べてくれたよね?」

 おれは黙って頷いた。
 3年前、おれ達姉弟が箱猫に越してきたときから、おれは竜希にも伊織姉ちゃんにも誰にも内緒で、桃李とうりの捜索結果を毎月必ず、こうして蓮に報告している。


   ◆ ◆ ◆


 解決部のみんなを頼るわけにはいかなかった。桃李の名前を出して捜索依頼を出したら、あの事件の「塞翁小虎」のことも、たやすく知られてしまうから。
 それだけは避けたかった。だから、おれはずっと一人で桃李を探してきた。

 3年間箱猫を調べても、めぼしい情報は得られなかった。
 そもそも桃李が生きているのか死んでいるのか、それすら分からないままだ。

 でも。でももし、生きているなら。
 桃李はきっと箱猫にいる。

「……それって結局、今月も成果なしってことだよね? ほんっと、コトって使えない」

 1か月間の報告を終えたおれを、蓮がいつものように罵る。

「ごめんなさい……」
「謝ったら許してもらえるとでも思ってんの? ふざけんな。ふざけんなよ。……こうしてるあいだにも、トーリは知らない場所で、困ったり、苦しんでるかもしれないのに」

 そういう桃李のすがたを想像したのだろうか。蓮は顔をしかめて、がりっと爪を噛んだ。

 だめだ。蓮の発作が出る。おれは蓮の気持ちを少しでも軽くしたくて、あわてて「いいニュースもあるよ」と切り出した。
 蓮が怪訝な顔でこちらを見る。おれは、このあいだ解決部の依頼で足を踏み入れた、迷宮のことを蓮に話した。

「……だからね、本当に現実世界の箱猫と似てたんだ。迷宮がいつから発生するようになったのかは、まだ分からないんだけど。もしかしたら4年前、桃李が箱猫の迷宮に迷い込んだ可能性だって、あるかもしれなくて……」

 おれの話を聞いていた蓮の表情が消える。
 不安に駆られていると、蓮がぼんやりとした目を、こちらに向けた。

「……なんでそれ、もっとはやく言わなかったの?」
「え……」
「それだよ。トーリは迷宮にいるんだよ。……きゃは! 会える! トーリにまた会えるんだあ!!」
「ちょ、ちょっと待って、蓮! まだそうだって決まった訳じゃ……」
「絶対そうだよお! コトには分かんないの!? ほんっとダメなんだから!」
「蓮、お願いだから落ち着いて。新しい可能性を見つけて嬉しいのは分かるけど、あんまり興奮したら、また発作が……」
「は? これで落ち着いていられる? ……もういい、コトなんかを信じて頼った私がバカだった。私が直接箱猫に行って、迷宮とトーリについて調べるから、いい」
「だ、だめ! 迷宮には危険がいっぱいあって! おれが解決部で、ちゃんとよく調べて報告するから、だから」
「うるさい。いっつも困った顔で、被害者ぶりやがって。役立たず」

 蓮の口から、ひゅうひゅうと、すきま風のような音が漏れはじめる。

 あ……。
 喘息の、発作。

 蓮、吸入薬を、って言う自分の声が、他人のもののように空虚に響く。
 全身が硬くこわばる。蓮に喘息の発作が出たら、いつものあの一言が来る。

 蓮は、ひゅう、と喉を鳴らして、画面越しにおれをにらみつけた。




「トーリのこと、友達じゃないって見殺しにした、人殺し」




 ──では私と織田君は、友達ではないのだろう。

 ふわふわ、ふわふわと。真っ白になった頭に、いつかの榎本さんの言葉がよみがえる。

 告げ口をしたオダネネに、そんな風にあっさりと赦しを与えた榎本さん。
 あれだけ仲良くしていたオダネネに、友達じゃないって言った、榎本さん。

 だめ。ゆるさないで。/そんなこと言わないで。

 あれだけ仲良くしてて裏切られたのに、ゆるさないで。/あれだけ仲良くしてたのに、おれみたいなこと言わないで。

 おれをゆるさないで。/おれみたいにならないで。




 ……違う!

 おれは止めていた息を吹き返した。
 途端に全身から汗が噴き出て、心臓が早鐘を打つ。息が苦しい。酸素を求めて、喘ぐように呼吸する。

 間違えるな。
 おれは息を荒げながら、自分に言い聞かせて、何度も線を引いていく。

 榎本さんは、おれとは全然違う。
 オダネネだって、おれじゃない。

 それに、榎本さんとオダネネは仲直りして友達になった。
 だからもう二度と、あの二人とおれたちのことを、ごちゃまぜになんてしたりしない。

 線を引き切ったおれは、視線を上げて蓮を見た。
「何、その反抗的な目。どうしようもないクズのくせに」と、蓮が眉をひそめる。

 ……確かにおれは最低のクズだ。
 でも、今のおれは、尊敬する榎本さんの助手の塞翁小虎でもある。
 何もかも知ってる蓮に、今さら事実を指摘されたくらいで、動揺してうろたえてたら「何をしている、情けないぞ塞翁君」って、榎本さんに叱られる。

「おれが調べる」

 声を絞りだす。
 喉が熱い。身体が熱い。

「おれが、調べるから」

 心臓がうるさくて、息が苦しくて、どうしようもなく生きているんだって分かる。

「何て言われてもいい。おれが最後まで責任もって、絶対に桃李を探すから。……だから、自暴自棄になったりしないで、蓮」
「は? あんた私に命令とか何様?」
「何様でもない。……ただ、おれは、蓮のことだって大切だから」
「……っ!」

 泣きそうな顔をした蓮が、おれの方へ手を伸ばす。
 
 ──間の抜けた音を残して、LINEのビデオ通話が切断された。


   ◆ ◆ ◆


 おれはときどき考える。
 顔立ちの美醜って何だろう。

 おれは整っているらしい。
 蓮も整っているんだろう。

 でも、頭蓋骨を覆う薄皮一枚の微妙な差に、そんなに価値があるんだろうか。

 おれは内面から出る美しさが好きだ。

 たとえば、榎本さんの強い意志を映す、凛と澄んだまなざし。
 たとえば、オダネネがほんとは気にしてるけど、笑いたいときに笑うために見せる、小さなギザ歯。
 たとえば、ニノマエ君がその装いで人に笑われても、堂々と、まっすぐに伸ばしている背すじ。

 そういうものが、綺麗で、可愛くて、格好いいと思う。

「あれ、部屋にいたの、小虎」

 夕刻。自室からベランダに出たら、隣の部屋の姉ちゃんも、ベランダに出て煙草を吸っていた。

 薄紫の煙が帯のようにゆらめいて、甘い匂いをおれに届ける。なんだかとても懐かしい気持ちになって、ふいに体の力が抜けて、泣きたくなった。泣くまいと、ぐっと眉間に力を入れてこらえる。

「……何かあった? あんた、顔つき変じゃない?」
「そう? さっき悪い夢、見たからかな」
「おいおい寝てたんかい。どーりで静かだと思ったわ」

 姉ちゃんは笑って、煙草の吸い口を唇で挟む。

「……ねえ、姉ちゃん」
「んー?」
「姉ちゃんは、何で煙草を吸ってるの? 何かから逃げたり、ごまかしたりするため?」

 前にオダネネに話した煙草を黙認する理由を、ふと思い出したので聞いてみる。
 おれにとっては、文学や映画や音楽が、生きていくための合法的な麻薬だった。姉ちゃんにとっての煙草はどうなんだろう。

 姉ちゃんは目をまるくして、数度まばたきした。
 それから、にいっと赤い唇を横に伸ばして、歯を見せておれに笑いかける。

「好きだからだよ。それだけ」

 夕陽を背にする姉ちゃんの笑顔は、なんだかとても綺麗だった。

「まあ始めのころは? そういう逃げの道具でもあったかもしれないけど? 美味いし、好きだから続いた訳だし? 今は逃げの道具なんて必要ないし?」
「……姉ちゃんは強いね」
「はは、今や塞翁家最強のあたしも、昔は弱かったよ、小虎。人は変わっていくからね」

 姉ちゃんが軽い調子で笑って、煙草の煙を、ふぅっと吐いた。

「ところでさ、小虎。遊びに行った帰りに、食材の買い出ししてきたから、今日の夕飯、だいたい何でも作れるよ。何食べたい?」
「ほんと? じゃあ、オムライス」
「オムライス〜? あんたほんとにオムライス好きだね」
「うん。前より好きになった。大好き」

 ──おれも変わっていけるだろうか。
 すこしずつでいい。小さな一歩でいいから、踏み出して、積み重ねて、新しい景色を臨める日がくるだろうか。

 おれは姉ちゃんと並んで、濃いたまご色をした、ぽってりとした夕陽が落ちていくのを眺めた。

 ──黄昏時。
 誰そ彼。
 君はだれ?

「コト、私決めたよ。春に高校生になったら箱猫で独り暮らしする。それで、コトと同じ黄昏学園に通う。入学式に間に合うか分からないけど、私のこと待っててね♡」

 そんなLINEが届いていることを、スマホを置いてベランダに立っているおれは、まだ知るよしもない。

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