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なぜ買い占めるのか

<まえがき>

感染症の蔓延にともなってネット上にもテレワーク環境のトラブルや気付きが共有されるようになった。

なかでも興味をそそられるのは、テレワークが始まっても「会うこと」を前提にした習慣が抜けきらず、アプリを利用した長時間の(無意味な)ビデオ会議を要求する上司、進捗を監視するためにカメラの常時起動を要求する上司といったコミュニケーション渇望の症状が散見されるようになったことだ。

ある人にとって会社組織というのは利益を追求するためのものであり、<精神的なつながり>を要請するものではない。しかしある人にとっては組織はそのためのものである。そしてそのふたつの認識は「並行して」存在している。

そんな中、Twitter上で内田樹氏が以下のように発言しているのを見かけた。





この言葉に対して「家にいることで感染拡大を防げればそれが社会に立っている」という反論がされていた。それもそうだと思うが、やはりそれでも話がすれ違っているように思う。今回は、このすれ違いについて考えてみたい。



   *       *


疫病のみならずたいていの災害で僕たちは、それと資本主義の相性が著しく悪いことを感じさせられる。風が吹いてガムテープや懐中電灯が売り切れたかと思えば、伝染病が蔓延して食糧やマスクや、それと関係ないものまで売り切れる。ここでは悪い世の中は"誰か"が成り立たせているで触れた資本主義的な<関与否認>の構造、「私は愚かではないが周囲が愚かな行動を取ると予想されるので同じ行動を取らざるを得ない」という心理によって全体が愚か者として振る舞う光景が繰り広げられる。このときスーパーで、それかドラッグストアで僕が、あるいはあなたが「なぜ買い占めてしまうのか」を端的に言うと、それが売り切れたときに困るのは「関係ない誰か」だから、と説明できる。

村の全員が互いを見知っている田舎の集落でもなければ、現代の都市では近所を歩いていて「そのへんの人」の名前や素性を知っている、ということはあまりない。道を歩いていてすれ違う人は、近所の誰かであることは間違いないが、僕はその人が誰であるかも、どのような人で、誰に大切にされていて、親密な人から何と呼ばれているかまでは把握していない。そしてお互いにその「知らないこと」を前提にして、過度に干渉しないこと、相手のプライバシーを尊重して「無視する」ことがいわば暗黙のうちのマナーになっている。

社会学者のアーヴィング・ゴフマンによれば、近代都市の通勤電車のような不特定多数の「関わりのない」人間が物理的に接近する環境では、「相手を一瞥して存在を認め、すぐに目を逸らしてそれに対して無関心であることを装う」ような態度、いわく「儀礼的無関心」のマナーが要求される。私はあなたを知らないしあなたに関わることもない、あなたも私を知らないし私に関わることはない、私たちには「帰る場所」が別々にある、という配慮の形が1950~60年当時のアメリカ中産階級の間で確認された。

そして、「街(消費社会)には知らない人が溢れているが、家(あるいは遠くどこか)には愛する誰かが待っている」という関係性の二分化は、そのまま買い占めという行為を肯定する心理的条件になる。私は買い占めることによって見も知らない近隣地域の人間に迷惑をかけるが、買い占めた物資を子どもや孫や、その他愛する家族に分けて喜ばせることができる。この行為は「親切」ではないが、「愛情」に溢れている。愛情至上主義の社会では不親切を糾弾することはできない、愛情は義務であっても、親切はただの努力目標でしかない。



「私はあなたを知らないし、知ろうとしない」という配慮の形は現代ではネット上のSNS、スマートフォンのような伝達手段によって加速している。電車で、休憩スペースで、街角でスマートフォンをいじっている誰かに、あなたは話しかけることはない。なぜなら、その誰かが話したいと思っているのは端末でやり取りしているどこか遠くの誰かであり、その場にいる人のうちのどれかではない。そして、その誰かはあなたやその場にいるほかの人たちよりも、有益で、興味深い情報を提供してくれるのだ。

こういった前提があって、スマートフォンに集中している状態の人は一種のクラウド的な存在に置き換えられる。私の肉体はここにあるが、私の本当の存在はこの端末や、私の情報がアップロードされるネットワーク上にある。そこにいる人たちは私に興味を持って、私の内面を見て、私の趣味嗜好に同意し、私を大切に思ってくれる「精神的なつながり」を持っている人たちである。常に「私が求めている情報」を提供する準備のあるネットは、私と蜜月の関係にある存在であり、誰もその関係に立ち入ってはならない。

ネットワーク上に「本体」のある世代にとって、私が「ここにいる」にも関わらずこの場にいる人たちとコミュニケーションを取ろうとしないことは不自然ではない。肉体としての「私」の存在は、何かの仕方ない事情によってたまたまここに留まっているのであり、たまたまここに留まっているからといってそれが関わってよいという理由にはならない。

つまりコミュニケーションは、どうしても避けられない物質的な、肉体としての「わたし」に課せられる義務的なやり取りと、それに縛られない精神的本体としての「わたし」、私を愛し、認め、私が求めている真の交流を実現してくれる仲間たちとの「精神的なつながり」に二分化される。



テンニースの分類にしたがえば、組織は利益や昨日を目的とした実益的組織<ゲゼルシャフト>と、人間関係(地縁、血縁、友情…)を中心として構成される共同体<ゲマインシャフト>に分けられる。いうまでもなく、グローバル資本主義は会社組織を中心としていかなる集団をも実益的な組織、ゲゼルシャフト的なものへと変革させてきた。ゲゼルシャフト的な組織は構成員の存在そのもの<あなたがあなたであるということ>ではなく、その機能、成果、利益を<あなた>と定義し直す。したがって、いくらでも交換のきくパーツになった<あなた>は、生涯や生活のいっさいを保障されることなく、搾取されたり、解雇される立場に甘んじる。それが利益のためによいことなのだから。

リベラル・ポリコレ時代の社会では、資本主義的な原則にしたがって会社組織が急速に<ゲゼルシャフト>化に舵を切ると同時に、労働者もまた会社組織に対して<精神的なつながり>の拒否権を行使する。モラル/パワー・ハラスメント、アルコール・ハラスメント、プライバシーの侵害、こういった権利意識の急速な確立は、組織が構成員を「人間」として見なくなった時代に、依然として「人間としての交流」や「精神的なつながり」を求めようとする溶け残った傾向への必然的な反抗だったと言える。あなたが私を人間と思っていないように、私もあなたを人間と思わない、あなたが私を知らないように、私もあなたを知ろうとしない、という関係によって労働者と組織は「フェア」になろうとした―――つまり、「会社とは利益を追求するだけの存在である」という定義に厳密に従うことで、労働者は会社組織が私生活に闖入する態度を拒否したのではないか。



このような、個人における「(尊重されるべき)人間としてのわたし」の振る舞いを徹底する場と、「(機械として扱われる)機能的なわたし」の振る舞いを徹底する場を分離しようとする傾向にひとつの答えとして存在したのが前述のSNSを中心としたネットの存在だったといえる。ネットを介した無益なやり取り、そして趣味嗜好に応じた有機的なコミュニケーションは冷酷な資本主義社会に<交換可能な機械>として扱われている私を<人間>に戻してくれる。存在としての<わたし>は無益で、非機能的な側面においてこそ唯一無二の、交換不可能な<わたし>なのだ。

クラウド上に<わたし>を持っている若者は労働環境において、たとえばコンビニエンスストアの店頭で限りなく<機械>として振る舞おうとする。一方で、その<ここにいない私>を持たない存在である老人は、商品やサービスといった「物理的なやり取り」を通じて他者とのコミュニケーションを図ることしか知らない。したがって、コンビニエンスストアの店頭では相手を「人間存在として扱い、人間存在として扱ってもらおうとする」老人と、「機械的存在として扱い、機械的存在として扱ってもらおうとする」店員との間でコミュニケーションのひずみが生じる。老人にとってマナーは「あなたがここにいると認めること」であり、店員にとってのマナーは「私がここにいないと認めること」なのだ。

また、クレーマーの存在は、資本主義が物質的なやり取りに内包されている精神的なつながりを漂白する過程で不可避的に発生したものと考えて差し支えないだろう。クレーマーは「私がここに存在していると認めてほしい」という要求を、消費社会が前提とする「機能的・実益的」な言語で婉曲に表現することしかできない。そして店舗も、その要求に「機能的・実益的」な返答しか用意できない。



さて、傍から見れば同じ一つのやり取りに見えるものに大して、一方は実益・機能的な側面のみを、もう一方は<精神的なつながり>を要求しているという二つの並行した世界を中心に据えれば、社会の持つ必然性、そして「家を出て人と会うこと」の必然性にもばらつきがあることが理解できる。

クラウド上に「本当のわたし」を持つ現代的な若者にとって、物理的に他者と接触しないことは多面的な「わたし」のうちの一つを制限されることに過ぎない。しかし、実体としての「わたし」しか持たない老人にとって、現実の他者と接触しないことは<わたしが存在していること>の確認を剥奪されるということを意味している。

老人だけではなく、社会人としての<わたし>、会社に貢献することを建前にしたコミュニケーションに他者からの承認を完全に依存している全ての人間にとっても、「他人と接触しないこと」は存在論的な危機を意味している。この人たちもまた、他人と接触しないだけで甚大な精神的苦痛を被ることになるのである。

「精神的なつながり」と「物質的・義務的なつながり」の厳密な分化は、「私が他者に親切にする理由」を限りなく希薄にする。私は、他者に対して限りなく冷酷に接し、その代わり「精神的なつながり」のある人間に過剰で集中した愛情を注ぐことができる。見知らぬ他者に対して閉じられた愛情が親切を不可能にし、十分にあるはずだったものさえ枯渇する光景には、ヴォネガットのあの言葉が相応しいかもしれない。



どうか――愛をちょっぴり少なめに、ありふれた親切をちょっぴり多めに
(「スラップ・スティック」、カート・ヴォネガット)

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