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否定されないプロパガンダ

ラカンにとってリアルとは、あらゆる「現実」が抑圧しなければならないものであり、まさにこの「抑圧」によってこそ、現実は構成されるのだ。リアルとは、目に見えない現実の裂け目や、そのつじつまの合わないところのみに垣間見ることのできる、表象不可能なXであり、トラウマ的な空洞だ。だから資本主義リアリズムに対抗する上で可能な戦略のひとつは、資本主義が私たちに提供する現実の下部にある、このようなリアル(たち)を暴き出すことだろう。(「資本主義リアリズム」マーク・フィッシャー)



個人が自身のナルシシズムを満足させるために自分の不都合な側面を抑圧し、隠蔽しなければならないように、ある社会形態が持続するためにはばらばらの願望を持った市民がそれぞれのナルシシズムを満足させるのに足る共同幻想が要求される。

たとえば君主制では、所属する市民が理想化された君主の像を崇拝し、これを経由して自己のナルシシズムを満足させることで階級や支配構造、搾取されるおのれの境遇を正当化する。君主を崇拝する市民は、自らの悲惨な境遇という現実を含んでさえ、理想化された君主像―――それは自己と同化している―――に矛盾するひずみを隠蔽し、抑圧する。国家、民族、その他象徴的な人物に対する崇拝であっても変わらず、ナルシシズムを崇拝する対象に投影している者は自己正当化のためにその欠点を抑圧するという事情によって、自らが従属する関係性を強固にし、一種の安定をもたらそうと試みる。

宗教者に精神病が少ないことや、ナショナリストが憂鬱症に罹りにくい(あるいはむしろ精神病や憂鬱症の処方薬として宗教やナショナリズムが要求される)理由としてはこの、ナルシシズムが崇拝する聖的な対象を通して自己に還元されるという精神構造が関係している。つまり、崇拝する対象の強固さと、理想化に矛盾する不都合な側面の隠蔽にさえ注意を払っていれば、自己の境遇に依らずとも自我の安定性が得られる。



資本主義と分裂症


とすれば、個人主義時代に生きている僕たちの最大の不幸は、これらのイデオロギー的な現実への対案がもはや幻想であると「知らされて」しまったことだろう。かつて、個人は個人であると同時に宗教者としての私、民族としての私、コミュニティの一員としての私という集団幻想的なナルシシズムを有することによって自我の安定を保ってきた。現実がいかに悲惨で苦しいものであっても、私が属する集団の聖性や名誉、永続性によって私は劣等感に苛まれずに済む。たとえば(ショーペンハウアーが最も安っぽい誇りと評した)民族としての誇りがあれば、個人としての私は比較的貧しく無学でも耐えられる。この構造は、私が実際には悲惨な状態にあるという事実を内包する搾取的な形態をなし崩しに肯定するかわりに、私が発狂することを水際で防いでくれたものである。

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