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メンタルヘルスに対して求められる無限の自己反省について


現在において支配的な存在論では、精神障害に社会的な原因を見出すあらゆる可能性が否定される。この精神障害[にまつわる認識]を化学・生物学化[chemico-biologization]していく潮流はもちろん、精神障害の脱政治化と厳密に相関している。精神障害を個人の化学的・生物学的問題とみなすことで、資本主義は莫大な利点を得るのだ。第一にそれは、個人を孤立化させようとする資本の傾向を強化させる(あなたが病気なのはあなたの脳内にある化学物質のせいです。)第二にそれは、大手の多国籍製薬企業が薬剤を売りさばくことのできる、極めて利益性の高い市場を提供する(私たちの抗鬱薬SSRIはあなたを治療することができます)。
(「資本主義リアリズム」、マーク・フィッシャー)



資本主義を動かす原動力は「可能性」や「夢」のような、あるかないかも分からない、またあってもなくても実質的には変わりのない断片的な観念である。そうして、個人に与えられる全ての可能性の代償として甚大な責任が与えられる―――つまり、あらゆることが可能であるなら、必然あらゆる責任は自己にあるのであり、可能であったのに実現しなかったことは、自己の選択や努力不足によってしか説明され得ないのである。

今日では鬱病、パニック障害、不安障害、ADDやADHD、アスペルガー症候群、HSP等、社会適応に問題をもたらす精神上の症状や性質について留まることを知らない細分化がなされており、これらが個人性に対しての理解を高めるメリットを与える一方で―――決して度外視できないのは、こういった精神分析的分類は結局のところ社会適応をゴールとした「正常な個人」の定義に個人がどれだけそぐわないかというシステム本位の視点を強化するものに過ぎないということだ。個人が社会に適応不可能であるという事実は、個人の持つ要素とシステムの相対的な関係性の不和を表すのみに過ぎず、異常な個人という考え方自体が完璧に固定された社会像なしには定義され得ない。ところが資本主義社会では、この異常な個人が際限なしに増加し、細分化され、溢れかえった様々な定義の間を徘徊するのである。まるで流行り物のように、今日はあの異常性を自認し、これが原因だったとやっと一息ついたのもつかの間、翌日にはもっと厳密な定義によって別の病名を充てがわれる。(私はだれ?)

全てが個人に帰結され、あらゆる個人が自己について専門家よりも熟知し、セルフメンテナンスの責任を追っている事実は、資本主義の原則である利己主義の起こす不具合の一種であると考えられる。利己主義において個人はどのような問題を抱えるのであれ、それを自分単体の問題として最小化して捉えればよい―――つまり「自分さえ助かればよい」―――のであるが、社会適応のハードルが際限なく上がっていく状態、つまり個人ではなくシステムや体制に問題があると考えられるような状態にあっても、利己主義の名のもと全ての責任は個人に帰結され、無限の自己反省が求められるようになるのである。

なぜそうなるのかというと、資本主義における医療を含めたあらゆるアクションは商品でありサービスであるので、サービスを受ける主体であるところの患者単体の利益を最大化する理念に基づいている必要がある―――つまり、精神医学と患者の関係を端的に言うならば、「あなた一人が助かればよいのだ」と言うために、全ての原因も、また全てのチャンスも患者単体の責任のもとに委ねられるのである。

換言すれば、患者にとって「社会が悪い」と言われることは「あなたの努力では助からない」と同義であり、患者はむしろいかなる環境でも自助努力によって蘇生するスーパーエリートであることを求められることになる。

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