希望の分散
「平気で生きるということ」では、「人生」「幸福」「成功」といった観念を解体し、自分の得られるものではなく自分が何かをすること自体に主軸を置くことを重視するように繰り返し訴えている。
人が自分の意思で自在に左右できるのは自分の行動だけで、そして自分の行動を左右することを通してしか、自分の気分をコントロールすることはできないからだ。自分の気分をコントロールすることのできない人は酒やドラッグ、消費、娯楽への過剰な依存などを通して刹那的な快楽を得るが、長期的には疲弊し、破滅への道に踏み込んでしまう。
「中毒とは、好きなものを失うこと」では以下のようなことを言っている。
あるものごと、あるいは人に対して、それが自分自身、そして自分の人生まで救うことまで求めてしまうとやがてそれを失うことになる。そんな壮大なことは誰にも、何にもできないからだ。やがて、それが自分を救わないということに気付くと、幻滅し、それを好きだったことを忘れ、捨ててしまう。このように、第三者や物に対して「自分を救う」という難題を押し付けてしまうことを、世間ではわかりやすく依存という。
理由がなんであれ、自分が不完全だと感じている人は常に何らかの物質や他者を通して自分を「完全」にしようと考える。その何かがあれば悩みや憂いから開放され、他人がそう見えるように毎日上機嫌に暮らすことができるようになるはずだ。しかしこの願いが叶うことは少ない。人間のタイプはある程度決まっている。
「自分の行動」と「今の気分」という他人を介さない、小さな単位に主軸を置いたとき、様々な結果に一喜一憂する必要がなくなって生活することはもっと楽になる。
しかしそれでも絶望は襲ってくる。絶望が望みが絶たれる、と書かれるように、人は何かに過剰に期待し、それに裏切られることで落ち込み、自分はだめだと感じる。
もしもその期待が、それぞれのものに対する「私を完全に救う」という期待であったなら、それが実際にはそうでなかったときの絶望は深く、耐えがたいものになる。そういったことを繰り返すうちに、もはや何かに期待すること自体をやめ、あらゆる希望や可能性そのものを拒否することにも繋がる。いわゆる鬱とかアパシーという状態だ。
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