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「わかりやすい言説」はなぜウケるのか?

デマや陰謀論、疑似科学、メディアが報じないニュースの「裏側」、巨大組織に隠蔽された不都合な真実・・・現在、かくも多様な「真実」が並行する世界をしてポスト・ファクトなどと呼んだりしますね。各々の信じる現実が自由市場経済的にその存在を許されているとき、ひとつの必然的帰結として「わかりやすい言説」が支持され、比較的複雑で、一筋縄ではいかないような現実認識のほうが淘汰されるということが起こり得ます。

「わかりやすい言説」の数々を生む欲望のひとつには、あるひとつの言説が、全世界中の不都合をたったひとつの法則から無矛盾的に説明してくれれば「都合がよい」というものがあります。今回は、このような「わかりやすい言説」の組成を、「無矛盾性、万能性」への欲望からわかりやすく説明してみましょう。



1.思考のショートカットー「裏にある真実」の誘惑


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さて、人間の思考について私たちが指摘できる大きな特徴のひとつは、それが「可能な限りコストを省略する」ということです。たとえば、私たちが既に知っているものの見方と、それを否定し覆すものの見方の二つがあるとき、当然ながら私たちは前者の「既に知っているものの見方」でものごとを判別しようとします。さらに、その既に知っているものの見方が「星は地球のまわりを回っている(天動説)」のように「体感的に納得しやすい」ものであれば、その誘惑はさらに強固なものになると言えるでしょう。

現実認識の選択は実際には「複雑なものより簡単なもの」のほうに傾く性質を持っています。たとえば図のように、私たちがあることを知ろうとするときに、習得にはるかに長い時間を要する「とても難しくて長い本」Aと、その本の内容が否定されてもっと簡単な説明で論破されている「短くて簡単な本」Bの二つが並んでいるとします。そうすると私たちは、ほとんど避けられずに「短くて簡単な本」であるBを手に取りたいという欲望に駆られます。

ここには私たちが、「追認を受けた一般的な事実」より「隠された真実」のほうに強力に誘惑される大きな理由が存在します。つまり、一般認識を「否定」する言説は、様々に矛盾し、対立し、対立を超えて構築された複雑な「現実」を横断するプロセスを「省略」し、それらは全て偽であるとして唾棄し、「たったひとつの視点で全てを説明できる万能の言説」を提供してくれるのです。

このような「万能の言説」の最大のメリットは、それが矛盾を含んでおらず、それだけで全てのものを説明できるということです。実のところ、この無矛盾性ーーー「うまくいかなさ」の完全な欠如こそが危険な言説の特徴だといえます。



2.無矛盾で強力な「裏」知識


科学は無矛盾的なものというイメージがありますが、その前提としては矛盾そのものを包括しているという段階が存在します。たとえば、確率的に振る舞う粒子を説明する量子力学と非常に大きなスケールの物理現象を説明する相対性理論は、それぞれ正しいはずのものが一緒に考えると途端に両立しなくなりますが、その対立こそが新たな研究の契機となります。

一方で、私のような門外漢がこのような非専門分野の知識を得ようとするとき、どうしても「全てを無矛盾的に説明する万能な言説」を求めてしまうという誘惑に駆られてしまいます。そこで、ある分野に求める一般教養的な知識を「欠いていれば欠いているほど」、その分野の知識に一種の「万能さ」を求めてしまうというパラドックスが発生します。

たとえば岸田秀は、心理学の分野で昔から以下のような光景が繰り広げられていることを書いています。



精神分析するというと、昔の剣術の免許皆伝の達人でもなければ身につけていないような何か特別な難しい専門的、神秘的技術を用いて縺れた無意識的心理を謎解きのように回りくどく解明するかのように思っている人、あるいは、精神分析の技術に熟達すれば、黙って座ればピタリと当たる占い師か読心術者のように、人の心を見通すことができると思っている人がいるらしいが、魔法使いじゃあるまいし、そのようなことができるわけはない。(中略)精神分析とか深層心理学とか精神医学とかを用いて、恋人を獲得する方法とか部下を統率する方法とか顧客に商品を買わせる方法とかを教えてくれる者も後を絶たないが、そして、そういう者が書いた本はわりと売れるらしいが、精神分析や深層心理学や精神医学がそのようなことに役立つわけもない。(「唯幻論物語」、岸田秀)



この光景は今でもまったく変わっていませんね?つまり、ある分野の知識というのは突き詰めれば突き詰めるほど矛盾や対立を内包したものとなり、知識と反比例的に「こうだ」と言い切れる場面が少なくなってしまうもののようです。

結果として、たとえば「憂鬱が5分でピタリと止まる心理学」とか「悪用厳禁!人心を操る(裏)心理術」のごときものは、心理学の専門家であればなお「言い切ることができない」種類の言説となり、反対に自分の経験則だけで「これはこうだ!」と言い切れる人のほうが、ある言説が普遍的だったり万能な効果を持っていると喧伝することができるようになる、という状況が起こり得ます。

そして、私たちのような素人や門外漢については、心理学全体の発展がいかに多種多様の異論反論と対立を経由しているかを「知らないからこそ」、その経緯を度外視して人間のナントカという性質から全ての行動や思考をピタリと当てることができる…というナントカ心理学が「無矛盾的に存立し得る」ということを信じてしまえるわけです。

このことからも、どの分野についても一般的なアプローチによる一般的な知識こそがデマや疑似科学に類する言説に対する免疫だと言うことができるでしょう。



3.プロパガンダへの利用


「わかりやすい言説」は、この見方をすれば世界が一望できるとか、あるいはこの方法によって全ての問題が一気に解決するといった万能性を主張することで、種々のほろ苦い不都合を含んでいる現実から逃避させてくれます。

この種の言説はさまざまな分野について、免疫的な予備知識のない層をターゲットにした「受け入れやすい」あるいは「信じることによってメリットの得られる」外観をエサに、消費活動や特定の思想に誘導するプロパガンダとして利用されます。この問題は市民社会が一体になって加担している構造によって起きていると言われるよりX民族のせいで起きているといったほうが、あるいはこの病気は現代医療で完治の難しいものだと言われるよりこの特殊な波動治療器があればどんな病気でも治ると言われたほうがはるかに「信じやすい」わけです。

しかも、このような言説は外部から見れば明らな虚偽であっても、信じる人たちにとっては常にその言説を「信じざるを得ないところまで追い込まれて」信じてしまうという一種の必然性を伴って受け入れられていると考えられます。つまり、外部からそこへ向けて「そのような言説を間に受けるのは愚かだ」とか「教養に欠けている」と言うのは簡単なことですが、個別の事象を取り上げて批判するという方法ではとても追いつかない規模で、このような問題が絶え間なく発生しているのです。



4.多様性の転倒


雨後の筍のように種々の「真実」が乱立する世界では、それぞれの視点から見た「真実」が尊重されると同時に、互いに矛盾を避け、混じり合わずに距離を取ることが「対話」よりも重視されることになります。

多様性原理が転倒し、種々の真実が無矛盾的に存在している世界とは、以下のようなものです。



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ここにA〜Eまでの異なる言説が存在するとして、それぞれの言説が「わたしの言説を否定するな」という全肯定を要求したらどうなるでしょうか。

一見すると、これは「多様性」概念の実践に見えますが、ここにある「他の言説を否定することが禁じられた」状態、すなわち「肯定」だけで実現された多様性には、致命的な欠陥が存在します。それは「対話」のような相互変容が不可能だということです。

異なる言説の対話には、それぞれ「正しいはずのA」「正しいはずのB」という対立的な契機が必要となります。単独で存在している限り無矛盾に見える命題が、他の命題と同時に考えると途端に矛盾してしまうーーーこの状態をさしてアンチノミー、二律背反と呼びます。

全ての言説はこのようなアンチノミーを含み得るため、実は言説Aと言説Bが互いに矛盾しているということは、必ずしもAがBを全否定する、反対にBがAを全否定するというわけではありません。命題AとBが矛盾しているにも関わらず、それぞれ単独で成立しているとき、「Aの否定であるB」と「Bの否定であるA」はそれぞれ、全否定ではなく新たな段階に進む契機としての「否定」となります(ヘーゲルが規定的な否定と呼んでいるものだったと思います。違ったらすみません)。

これは、対話が異なる言説に対して「矛盾するまでの接近」を要するということ、すなわち無矛盾であり続ける限り言説が「対話」することは不可能だということを意味します。「たしかに量子力学くんも間違ってないけど、だからって相対性理論くんを否定するのは間違ってるよ」という仲裁は、両者の対話を阻害し、それ以上の進展をストップしてしまう可能性があるわけです。

ここには、「AとBが矛盾するとき、どちらか間違った命題が消滅する」という原理のひとつの限界があります。



多様性を担保するために持ち出された「全ての言説への肯定」、すなわち否定の禁止は、それぞれの言説に「そのままでいること」という全肯定を約束する代わりに、相互変容を禁止するものとなり、言説同士が進展なく「異なったまま膠着する」冷戦状態をもたらします。

この状態、すなわち「すべての言説が肯定されている状態」は、実のところ「すべての言説が否定されている」と酷似した状態だといえます。なぜなら、あらゆる言説がそれと矛盾する別の言説と接近することを暴力的侵略とみなし、禁じることは、単に同じ言説の集団が形成され、互いに影響のないように引きこもっている状態を推奨しますが、これは実質的に「他への影響を禁じること」、すなわち「まったく同意見である集団以外に向けて言説を表明することの禁止」として作用します。結果として、「矛盾にいたるべき全ての言説と距離を置き、冷笑している」というような態度も肯定されてしまいます。

このように、「全ての言説がそれぞれの領域で無矛盾的に引きこもっている」という状態が「多様性」の名のものとに認められるわけですが、この状態は「既に形成されている言説」や「大規模な言説」を守るという見当違いな方向に作用し、当初目指されていた「多様性」を阻害するものにすらなってしまいます。これは、言説の存在を「肯定」することが、すなわちその言説の「あるがままの現状を保存すること」とイコールで結ばれてしまった結果だと言えます。



おわりに


さて、ここまで無矛盾性を中心にして「わかりやすい言説」の特徴を論ってきましたが、ではその「わかりやすい言説」に対置される知識とはどのようなものでしょうか。強引ではありますが、おおむね以下のように分類することができると思います。


言説A:世界を簡略化し、わかりやすくするもの
言説B:視点を増やし、世界をより複雑にするもの


「わかりやすい言説」は一般に、世の中の複雑な問題を単一的な視点からフラットに説明し、矛盾の小骨を取り除き、簡単なものに調理して私たちに与えてくれるものとして受け取ることができます。広義には、差別的イデオロギーや疑似科学もこれに含められるでしょう。端的に言えば「わかりやすい言説」は、私たちが考える量を減らしてくれるわけです。

一方で、それと対置すべき言説とは、私たちの理解している世界にまた新たな視点を加え、吟味させ、余計に考えるべきことを増やすものと受け取ることができます。科学はもちろん、哲学や思想、宗教など体系的な知識のほとんどはこのように「余計に考えることを増やす」性質のものだと言えるでしょう。

一般的な傾向として、「わかりやすい言説」のほうが好まれると言えるのは、当然のことながら多くの人が思考の量やアプローチが多いよりは少ないことを望むからだと言えます。むしろ、わざわざ世界が複雑化するような知識を得ようとする人たちのほうが特殊だと言っていいかもしれませんね。

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