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幸福というカルト

私たちが何を幸福とし、何を享受するのかということにとって、主観は、客観とは比べものにならないほど重要である。(「幸福について」ショーペンハウアー)


幸福が主観的なものであるという前提は自己啓発的なオプティミスムと考えられがちであるが、ショーペンハウアーの場合はそうではない。もしも幸福がより客観的要素に左右されるもの―――たとえば金とか愛とか権力とか、その他もろもろの愉しみによって補われ得るものであるなら僕たちはそれを「与えられる」だけで幸福になることができる。しかしショーペンハウアーの視点では、幸福はほとんどその人にそなわった個性や精神性によるものであり、外部から与えることはできない。”特に精神能力の限界は、高尚なものを享受する能力をしっかりと確定する。(中略)そういうわけで幸福は、自分は何者なのかということ、つまり各人の個性に左右されることは明らかだ。”

悲観したリアリストは自分の不幸を外部に求め、客観的に、事実の羅列を利用して説明しようと試みる―――私が不幸なのはこれこれこういう事情によるものであって不可避なものである。言うまでもなく幸福などというものは、主観の中にしか存在しないカルトであり、そのカルトの存在や不在を客観的事実や機械的論理の組み合わせによって説明しようというのは無謀な試みである。不幸がもっぱら外部に事情を求めるのは、そのことによって自己の内部に含まれている要因を免責する試みだろう。



不可視の主体


テクノロジーが神よりも便利であったことによって、宗教は科学に敗北した。これによって起こったのは、事物の主観から客観、能動から受動、真実から事実への移行だった。科学が神を凌駕したことによって、事物は、あるいは人はもはや「神をとおして」存在する必要がなくなったのである。そこで、物質、他者、真実は私が信じている神を通して存在している―――つまり「私という主観」が信じているものから、「私抜きで既に存在している」ものへと変化していった。神が事物を存在させているという認知の歪みを排除することによって生じたのは、「わたしが見ている世界は客観的世界である」という認知の歪みの極みであった。この世は受動的事実の羅列としての決定論的な世界であり、あるいは機械論哲学的な精巧な機械であり、全ての因果は予測可能な原因と結果に基づいて滞りなく進行しており、私がどのように干渉するとお構いなしに回転し続けるのである。人生はとどのつまり「私という人間に用意されたすべての原因」がベルトコンベアに乗って次々に運ばれ、私という人間の限界にしたがって妥当な感覚や行動といった結果を出力しているに過ぎない。機械論は最終的には自由意志を否定する。私が何を思ったところで、それは「そう思うような原因があったに過ぎない」からである。

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