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悪い世の中は"誰か"が成り立たせている

後期資本主義においてある文化、メディア、娯楽、広告、その他緩やかな衰退に向かう分野では必ず「似たようなものが再生産され続ける」という画一化の症状が表出する。例えば映画であるなら繰り返し同じような設定、同じようなストーリー、同じような俳優、音楽であるなら同じような曲調、(恋愛や夢といった)テーマ、キーワード、といった既視感のある演出が繰り返されるようになるが、このような傾向が表沙汰になり指摘されると、作り手の側からは決まってこのような弁明がなされることになる。「そうは言っても、そのような演出を求めているのは消費者のほうだ」と。

特に広告代理店、番組制作会社の内部では「平均以下のバカをターゲットにすること・バカに分かるように作ること」が隠し立てすることもなく平然と推奨されていることがしばしば言及されるが、この「(バカでも)分からないといけないから」という大義名分はむしろメディアがきわめて低俗に、あるいは拝金主義的に振る舞うことの免罪符としての機能を果たしていると言える。つまり、表現がどれだけ堕落し、陳腐でつまらないと批判されようと、「受け手はそれを求めている」という前提がある限り批判の矛先は作り手の主体に向かわなくて済むわけだ。

「宿命論としての無意識」の途中では自由意志が存在しないという示唆を受けた人間が非倫理的な、堕落した振る舞いを見せる傾向があることに触れたが、ここにも全く同じロジックが通底していて、自分の行動の根拠を他人に預けられる時にこそ人間は決定的な行為に走ることができる。



たとえば、犯罪者の供述もしばしばこのような体裁を取る。なぜそのようなことをしたのですか、という問いに対して凶悪犯罪者から、人間は堕落した生物だから「罰する」必要があった、などという弁明が飛び出すことは珍しくない。このタイプの犯罪者は「凶悪な自己を有している」というよりも「不在の自己に凶悪な審級が憑依されている」状態であり、どこまで追及しても「自分がこうしたかったから」ではなく、「一種の決まりごととしてこうすべきだったから」とか「こうすべき理由としてこういうことがある」というように他者的な論理しか見出されない。ホロコーストで重要な役割を担った人物の調査でも、それぞれが凶悪な意志を持っていたというよりも「一種の歯車として、忠実に」仕事をこなしていた、という意識があったという。

性犯罪者の場合、異性に対して「聖母のような」潔白なイメージを求め、自分が加害しておきながら「相手を罰した」という意識を持っていることがあるという。宗教を背景にした厳格な性規範によって抑圧され、自己の欲望と欲望への罰感情に苛まれている犯罪者の心理学的な解釈は単純で、「欲望している自分」と「欲望する自分を罰する思い」に彼は分裂するが、自分自身を罰する代わりに他者の中に投影した自分(の欲望)を罰する、ということで欲望と自罰感の調和を図るのだ。このとき犯罪者は自分の意志というよりも裁判官のような「ルールの化身」として行動するために、「そうしなければならなかったのだから仕方ない」という供述をすることになり、まさにこの悪に対する傍観者めいた姿勢が真相を知ろうとする者を苛立たせるものである一方、凶悪犯罪の動機の本質でもあるといえる。

人間は意識上、自分と他人を明確に区分しているが、しかし精神のうえでは、なかんずく無意識の中では自己と他者、そして他者とまた別の他者は明確な区分を受けていない。憂鬱症患者の場合は事情が逆で、憂鬱症は自己の中に保存された他者を罰するために自己否定に対して容赦がなくなる。これは自己否定を通じて「自分をそういうふうにした何者か」を罰することができるからだ。

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