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なぜフィクションに触れるのかーオタクと多現実

本を読むにしても、アニメを観るにしても、フィクションに触れることは精神に対して一定の安定をもたらしてくれる。誰かが落ち込んでいるというと、運動をしろとか自然に触れろとか色々な役に立つアドバイスが殺到するだろうけれど、私には少なくともこれが一番手っ取り早いように思う。

さらに言えば、心酔して人生に影響を与えてくれるようなものよりも、むしろくだらなくて時間の無駄にさえ思えるものが望ましい。もっとも、くだらない時間の無駄に思えるようなものに触れている期間は、そうしているから精神的な余裕が生まれているのではなく、精神的に余裕があるからそういうものに触れられるだけだと考えることもできるが、それは運動をしろとか自然と日光に触れろという真っ当な進言すべてにも当てはまることだ。

それはともかく、どうしてフィクションに触れている状態の精神が安定するのかという疑問に対しては、単純に椅子や机の足の数が一本しかないよりはもう数本あったほうがマシだろう、というような考え方が当て嵌まりそうだ。

私たちがフィクションの世界や架空の人物に没頭していると、よく「そんなもの(現実の)役に立たない」と横槍を入れられることになるが、そういうことを言う人はたぶん現実を「信じすぎて」いるのだと思う。



私たちの住んでいる社会は皆の努力によってすり合わせされたひとつの共同幻想のもとに成り立っている。たとえばお金がどういう力を持っているとか、国と国との間がどういう線で仕切られているとか、家族は見えない絆で結ばれているとかいった取り決めの数々である。多くの人はこれを「現実」と呼んでいて、この現実に対応するためのルールを現実原則と呼ぶ。

そして、その「現実という幻想」にどっぷり浸りすぎていると、これが世の中でたったひとつの真実だというふうに徐々に考えが凝り固まってくる。現実原則だけを真実だとかたくなに信じている人は、フィクションに没頭している人を「幻想にうつつを抜かしている」と馬鹿にするかもしれないが、私たちの住んでいる「現実」もまた幻想のひとつに過ぎず、ただ他者と共有されていて都合の良い幻想だというのに過ぎない。だから、あるところで通用している現実、たとえばこの鉱物は希少で高価だというたったひとつの現実を信じて、それを携えて別の地域に行ってみると、それはがらくたに過ぎず二束三文で叩き売られているということが起こり得る。結局のところ、現実というのはそれを信じている多数の人間の幻想によって成り立っており、現実の「正しさ」とか「確かさ」は他の幻想と比較したときの相対的なものでしかない。

だから、上の例でいう「貴重なのはこの鉱石である」という現実に完璧に順応している状態は、現実原則との比較からすれば確かであるが、他に存在している多数の幻想との比較でいえば極めて不安定なものでもある。つまり、たったひとつの「現実」を信じて、それを基盤にして安定している精神は、その現実が崩壊するときに道連れにされてしまうわけだ。

私たちがフィクションに触れることで得られる第一のメリットは、それが私たちの「現実」に役立つかどうかではなく、私たちが触れている現実を「ひとつ増やす」という安定作用のほうだろう。ウエルベックは簡潔にこう言っている。


読書のない生活は危険だ。人生だけで満足しなくてはならなくなる。それは危険を冒さざるをえぬ状況をもたらすかもしれない。
(「プラットフォーム」、ミシェル・ウエルベック)



私たちは「人生だけで満足しなくてはならなく」ならないためにフィクションを必要としている。誰がどう考えても、ほとんどの人間が不幸になるような世の中になるほどなおさらそういう状況になる。したがって、フィクションの世界のできごとは<ご都合主義>で構わないばかりか、むしろ私たちの知っている現実原則を外れたものでなければならない。「こんなのはご都合主義だ」といって修正され、現実原則にすり合わせられたフィクションは現実の延長に過ぎず、触れている現実の種類を増やすというフィクションが担っている肝心かなめの役割を果たせない。

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