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実力社会は条件付きの愛情を与える

どんな子もはじめは親から受けた教育や行動原理をミーム的にコピーし、それをあらゆる他人に対して行使する。親と子の関係が他人に対して投影されるというのは、フロイト的に言えば反復脅迫(自分にとって恐ろしいこと、不愉快な体験を繰り返す衝動)とか、転移(他人を自分の親に見立てて、崇拝したり逆に攻撃したりする)と呼ばれるものになる。もしもこの子が何らかのきっかけでそのミームが不正であると気付かない限り、このミームはさらに他人から他人、子から子へ伝播し、次の世代にまで受け継がれる。そして、虐待などの負の教育を含むミームは、自我が確立される以前に「教育」され、無意識下に抑圧されるために、本人にとっては自覚できない。これが、過剰な暴力的虐待を受けて育った子がそれを「愛情あるしつけ」と思ったまま成人し、またそれを自分の子どもに繰り返すという連鎖を起こす。 便利になるほど忙しくなる、という矛盾 では資本主義社会における金銭がアイデンティティ(わたしが生きてよい理由)の代替となっていることに触れたが、今回はこの視点から踏み込んでみたい。



まず、親から子への間違った愛情のあり方として挙げられるのが条件付きの愛情―――あなたができる子である限り愛してあげよう――――だ。条件付きの愛情は、無条件の愛情と違った不安定な存在意義を形成する。親は子を無条件に愛していて、子が失敗したり盾突いても変わらず育成し続けるという前提は、太陽光が地球を照らし、地球上の生命を循環させているのと同じようなもので、理由がなく、途切れることがない。

反対に、条件つきの愛情では、子は親のために奉仕したり、努力したり、親の指示するルールに従ったり、何かのテストに合格するといった条件によって、限定的に愛情を供給される。このことは子に対して無意識下の不安を与え、その不安によって子はますます妄信的に親の敷いたルールに追従することになる。子にとってそれが最善の延命法だからである。

この不安によって子をコントロールし、インスタントに「いい子」「できる子」を作り上げ、後に混乱に陥れる条件つきの愛情が正当化される大きな要因として、社会そのものが条件つきの愛情に類似するシステムを体現していることがまず挙げられる。自己中心型の社会では、他人は助けてくれないし自分も他人を助けなくてよいという前提があり、誰もが「厳しい社会」の中で自立自営する義務を負っている。そこで、条件つきの愛情という訓練を与えることは、「厳しい社会」を生き残るためのしつけとして行われる。この親にとって、無条件の愛情とは、働かなくても賃金が支払われて、役に立たなくても生きていてよいということであり、赤ん坊が泣き叫ぶだけで愛情やミルクを与えられることは不正とみなされる。そこで、自分が欲する愛情に対して何らかの対価を支払う、ということを少しずつ教え込むわけだ。



なんのために生まれて なにをして生きるのか
こたえられないなんて そんなのはいやだ!
(「アンパンマンのマーチ」やなせたかし)



資本主義社会では、この「何らかの努力をしている」「役に立っている」ことによって「生きていてもよくなる」という交換条件的なアイデンティティのあり方が、恐らくほとんどの人たちにとって、子供の頃から繰り返し刷り込まれた考え方として存在している。大なり小なり、自立して生活している(と思っている)人は、自分が何がしか他人や社会のために役立っていると考えているようである。しかし前述のように、この条件つきの愛情に基づいた限定的なアイデンティティは、常に何かの奉仕や貢献をしなければ私は生きていてはいけないという強迫観念に紐付けられ、きわめて不安定な人格を形成する。貢献や自己犠牲によって存在意義を与えられるという前提は、その相手にも対象の存在を肯定するという重荷を負わせる。

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