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最も残酷なのは、「誰でも幸せになれる世界」に住む人々

不幸や理不尽の存在を抹消することによってこの世を「肯定」しようとする試みはどれほど善意で取り繕っても暴力という本質を外れない。この世に回避不可能な不幸や理不尽はなく、みな平等の可能性のもとに暮らしているという思い込みを公正世界信念などと呼んだりするが、なかでも自己責任論(すべての不幸には“原因”がある)はその最も単純な表現だろう。

「自由意志」には「責任」が伴っているという合理主義的な世界観は、ともすれば合理の存在し得ないところに合理を見出そうとする不合理に帰結する。つまり、「自由意志」に基づいて判断したから「責任」が生じるのではなく、「責任」を追及したい事件に対して遡及的に「自由意志」とか「判断の余地」が生じるのだ。世の中で「理不尽」な「不幸」があれば、必ずそこに駆けつけて「責任」や「自由意志」の存在を見出し、世界の合理性を保とうと試みる者が存在するが、これが自己責任論者の一般的な倫理である。



肯定原理主義


しかし、上のような自己責任論者の存在はそこまで特異でもないかもしれない。なぜなら彼らは、少なくとも不幸の存在を認めており、単にその不幸が自分に接近してくるのを忌み嫌っているだけだからである。

実のところ、最も残酷なのは、映画やフィクションの中で繰り返される「人は誰でも幸せになれる」というプロパガンダを間に受けて育った「幸せな人間」の方なのだ。今日、このようなプロパガンダはあまりに氾濫しており、もはやそれをプロパガンダであると見分けることさえ難しい。不幸の存在を否認する態度が、オプティミズムという言葉で括られてしまっているのである。

さて、「誰でも幸せになれる世界」に住んでみれば、すぐにこの世に不可解な問題が立ち現れる。それは、「誰でも幸せになれる」のに「幸せにならない人々」の存在である。なぜ、彼らは「幸福を選択」しないのか?

言うまでもなく、彼らはすすんで不幸を選択しているわけでもなく、たまたまそういう条件や状況に生まれ育っただけなのだが、「誰でも幸せになれる世界」ではすべての不幸には「責任」が生じる。つまり、不幸な人間は「不幸を選択」したのであり、その限りでは彼らは「不幸でさえない」のである。

そして、不幸と理不尽を経験している者は「不幸であると認めて」すら貰えない立場に追いやられる。つまり、「彼らは彼らの幸福を選択している」という「肯定」によって存在に二重線を引かれてしまうのである。



ここにも、「責任」を発生させるために「自由意志」が遡及的に形成されるという「公正世界」独特の因果関係が横たわっている。自己責任論者と彼らが異なるのは、彼らが不幸を「肯定」することによって無効化するというより修辞的な手段を好む点である。

たとえば、スピリチュアルな肯定原理主義者の世界では障害者は「障害者に生まれることを選択」したのだとか、「子どもは(たとえ虐待家庭であっても)親を選んで生まれてきたのだ」といったような「自由意志の遡及的形成」の原理が見受けられる。しかし、彼らはその「責任を追及する」かわりに、「ただその状況を受け入れる(肯定する)」ことを要求する。「あなたは不幸なのではなく、自分でそれを選択したのだから、それはむしろあなたにとっての幸福であるはずだ」というわけである。

このようにして、当人の責任下にない不幸とか理不尽といったものの存在は根底から否定されてしまう。全ての人は「自分の選択した幸福」を生きているのであり、その幸福を否定することは失礼ですらある、といった具合に。


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