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「我慢」し続けたときに起こることー分裂について

わたしたちが保護された、無力な子ども時代に身につけたひとつの自己保存の方法―――屈従すること、我慢すること、感じないこと―――は無意識に保存される。この原則は、それを自覚するまで何度でも、重要な選択の場面で呼び出され、無反省に繰り返される。

子どもであるわたしたちは弱く、自力で生活できないために、親が何を望み、何を感じさせたいかを鋭敏に察知し、愛されようと努力する。愛が得られなくても、似たようなものを必死で愛情であると誤認し、理想化することで自我の安定を保とうと試みる。

このとき、親が理想化された像と抑圧された像に分裂するのと同じように、子どもであるわたしたちの心も分裂する。親に屈従し、我慢し、耐え、傷つくための自己と、いたましい外界から隔離された、安全で潔癖な幻想に閉じこもる、理想化された繊細な自己である。



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大人になったわたしたちも同様に、生きるために「我慢する」「屈従する」という選択を取らざるを得なかったり、またはそうでもないのにそうだと感じてしまうことがある。このような経験が繰り返されるうちに、わたしたちは「理想化された/純粋なわたし」を自分の心の中につくり、「生きるためにあきらめるわたし/卑屈なわたし」という、現実の他者と外交をはかる「わたし」から隔離する。

この「ほんとうのわたし・あるべき姿のわたし」から分断された「生きるためのわたし」は、我慢すること、卑屈になって媚びること、傷つくこと、その他「ほんとうのわたし」を脅かす他者との交渉のいっさいを引き受ける。わたしは生きるために、この人の言うことに従って、やりたくもないことをやらされるが、それは本当の私ではないから問題ない。わたしはいま傷つくことを言われたが、曖昧に笑って誤魔化しているわたしはほんとうの私ではないから問題ない。わたしは自分の目的を誰かを傷つけてまでやり遂げようとしているが、そうしなければならないのは本当の私ではないから問題ない。

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