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悲しみが蓄積する人の思考ー無意識について

精神が強い、というと、あたかも弾丸を跳ね返す鋼のような心、悲しいできごとをものともせず、侮辱を受けても平然としていられるさまを思い浮かべてしまう。しかし、それは単に鈍感な人か、現実認識がぼやけてしまっている人で、精神的に健全な人はむしろ「悲しむべきことを悲しみ」「怒るべきことを怒って」自分の意識内で消化するというサイクルをありのまま自然に行うことができる。

安易な自己啓発が失敗する例として、もしも私が些細なことで傷つくのをやめたいとか、これ以上の悲しみが受け入れられないと思って、「今日からネガティブ思考をやめる本」とか「傷つきやすい自分を3日で変える本」のようなものを読んだとする。ここには私を勇気づけてくれる考え方がたくさん書いてあって、私はその時は自分が変わったと思って、変わった自分のイメージに基づいて生活しようとする。

すると私は、生活に起こる種々の悲しいできごと、ショックを受けるできごとに対して、本当は悲しんだり怒ったりしているのに、「こんなことは何でもない、私は強くなったのだから」と意識の隅に追いやろうとし始める。追いやられたネガティブな感情は消えずにむしろ蓄積され、ある日それが溜まりに溜まって無視できない物量になって雪崩れ込む。このときはじめて、自分は最初から変わってなどいなかったということに気付き、「私は変われない」という諦めの観念が生まれる。(※)

この例のように、自分の心という複雑なものを変えたいと思ったとき、それをあまりに短期間で済ませようとしたり、ありえないほど強靭なものに作り変えようとすれば、かえって心に傷を負う結果になりかねない。したがって私たちが自分の精神に対して願うのは、傷つかないことや動じないことではなく、健全に悲しみ、健全に怒って、健全にそれらの感情を乗り越えられるものになるということだ。



私たちが安易に「自分を変えようとして」失敗する最も大きな要因として、私たちが自分の「意識」を過大評価しているということが挙げられる。精神について知らない私たちは、自分が何を考えて、何を欲していて、何故これこれこういうことをするのかという動機を全て把握しているつもりでいる。しかし実際のところ、私たちの行動や思考の大部分を支配しているのは意識ではなく無意識であり、無意識の強大な圧力に対して意識は無力といえる。

たとえば、アルコール中毒の男がいるとする。この男は頭の中では「もう酒を飲むのをやめてまともな人間になりたい」と願っている。ところがどれだけ禁止感情を持っても飲むことはやめられず、飲んでは後悔してしまう。周りからすると、この男は口で「やめたい」と言っているだけで、本当は飲むことを悪いなんてこれっぽっちも思っていないのではないか、と非難する。ところが実際には、男は「飲んではいけない」と意識するほどそれをやめることが難しくなる。飲ませているのは意識ではなく無意識のほうだからだ。

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