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苦しむ自我の形態

現代における個性神話―――すなわち私たちの考え方や感じ方は不可侵のものであり、私たちに生まれついた尊ぶべきものであるという考え方は、いかなる状態におかれても私たちを「肯定する」と共に、その牢獄に閉じ込める。自我という牢獄である。

これまで説明してきたとおり、自我は私たちから自然発生的に生じるものではなく、親やほかの家族、友人知人や社会、文化―――さまざまな影響を受けて二次的に形成されるものに過ぎない。これは自我が、自分自身であると同時に他者であるということを意味する。

主体性を持つことを自我に従順であること、あるいは言い換えれば自我のいち形態に固執することと誤解すると、私たちは結果的に「自分」という名の他者に固執し続けることになる。個人主義における人間は、「自由であれ」「自分らしくあれ」という言葉によってますます他者に釘付けにされるのである。



この矛盾を最も極端な形で表現するのが「攻撃者への同一化」という防衛機制である。攻撃者への同一化は、わたしやわたしの自己同一性を否定し、揺るがそうとする侵略的な他者、ルールの介在に対して、自らその他者に同一化することで自己を「守ろう」と試みる。(※)

たとえば資本主義社会では人間の価値をその「有用さ」で測ろうとする考え方が蔓延する。ある人の価値は、仕事、年収、社会貢献や地位、外見、若さ、恋愛結婚や人間関係の充実…といった数値的評価に置き換えられ、ある基準を満たさない者は価値がないとされる。こういったとき私たちは、自分自身を低く評価しようという攻撃的な価値観に反駁するどころか「全面的に同意」し、一緒に自己を攻撃する側に回ってしまうのである。

自己憐憫に陥った人間は分かりやすくこの同一化を表現する。「私は年収が低いから」「外見が悪いから」他人に愛されないのである、社会に見捨てられるのである、といった自己憐憫は自己に対して侵略的な価値観を同一化し、自分自身を「攻撃する」側に回ることで束の間の安息を得る。しかし、攻撃的な他者に同一化することは自我の猶予をますます狭め、身動きの取れない「窮屈な自我」を形成する。

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