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なぜ死にたいと思うのか
さて、心というのは大きな赤ん坊のようなもので、時には全ての望みが絶たれたとばかりに大泣きし、また次の瞬間にはケロッとして笑ったり、へらへらと怠けたりし、とりもなおさず我々はこれをなだめすかし、思うところへ導いてやらなければなりません。
なかでも希死念慮、死にたいと願う深い絶望についてはよくよく対処しなければなりません。なぜなら、この大きな赤ん坊が暴れまわり、死へと向かうならば、その手綱を引く我々も引きずられ、道連れにされてしまうからです。
死への願いについて突き詰めると、ひとつの不合理に辿り着くことになります。死にたいという人を捕まえて、なぜそうするのかと聞くと、こう答えるでしょう。何かが手に入らない、あるいは失った、誰かに愛されない、何かに失敗した、誰かに見放された、・・・これでは生きていけない、と。
そうしましたら、この人は生きていけないから死ぬのだということが分かります。生きていけないから死ぬというのは、死ぬから死ぬということです。死ぬ理由を聞いているのに死ぬからだと答えるのはおかしなことだ、と冷静なときには考えられますが、断固としてその思いはその時に去来するのです。
また、彼らが時に死を願うことがあるという論拠をもって、彼らの過ごす生が長いという事実を証明できると考えてよい理由はない。彼らは、思慮のなさから、自分が恐れる当のものへと突き進んでいく不安定な情緒に苦しめられるのである。(セネカ、「生の短さについて」)
この不合理は、セネカによれば、我々の希死念慮はしばしば死への恐怖そのものによって呼び起こされるという言葉で説明されています。しかし、これがおかしいことだ、と笑うわけにはいきません。なぜなら、死ぬから死ぬというこの理由は、現代において私たちの多くが生きる意味として大切に抱えている、「生きるから生きる」という不合理に根ざしているからです。私たちの精神的な危機によって、しばしばこの不合理が露呈し、不合理な感情をもたらすのです。
この前提として私たちの中に植わっているひとつの観念、「わたしたちの生命は、わたしたちの人生は否応なく、精査の必要なく素晴らしいものである」という例の、狂信的な生命肯定論について考えなければなりません。
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