自分の望みを言うという責任について

ものごとが自分の意図しない方向に進んでゆくのをただ黙って見守って、取り返しがつかなくなった頃にはじめて不満をぶちまける人というのがいる。だが、自分の希望や不満についてはほかでもない自分自身に説明する責任がある。

たいていの不幸な人にはある傾向があって、彼らは望みを言わずに苦境を語る。だが、苦境を語る人に手を貸すのは難しい。望みが分からなければどちらに手を引くべきかも分からないからだ。そして、苦境を語った人には助けようとする人とは別の種の人間が寄ってくる。それは苦しんでいる人の足元を見て、利用しようとする人だ。

今回は望みを言う、ということについて話したい。


ここに三人の人がいる。一人はリンゴとブドウを持っていて、残りの二人に分け与えようとしている。このとき、片方の人は「私はリンゴが好きだ」と言った。そして、もう片方の人は「私はどちらでもよい」と言った。そうすると、果物を与えようとしている人はどちらにリンゴを与えるだろうか。

無論、「リンゴが好きだ」と言った方の人だ。それは、「その人がリンゴを好きだから」であって、リンゴがその人を好きだったり、あるいは果物を与える人がその人を好きだからではない。

だが、現実にこの「リンゴを与えられなかった人」が「本当はリンゴが好きだ」ということがある。この人は、リンゴが食べたいと思っているけれど、なぜかそのことを隠して我慢するのがよいことだと思っている。

そして来る日も来る日もブドウを与えられ、ある日「私は最初からリンゴが食べたかったのだ」と爆発する。だが、そんなことは他の二人にとっては初耳だ。続けて言う、「私は本当はリンゴが食べたいのにあなたは私にブドウを与える。あなたは私よりもう一方の人間を好んでいるのだ」と。あるいはこう言う「わたしがどれだけ望んでもリンゴはついに与えられなかった。この世界は、つまるところ私に私が望むものを与えない世界なのだ」と。

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