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広告に嘘はない、広告は嘘さえついていない

人は主観だけを携えて生まれ、やがて全てをそっくり客観に置き換えられて死ぬ。主観が砂のように流失すること―――主観が気付かないうちに客観へと変容し、そして二度と元に戻らないことは時間が必ず前にしか進まないのに似ている。主観がなくなって客観に置き換わったとしても、苦しむことなかれ、それに気付くための主観はもうどこかへ行ってしまったのだ。

そうしてこの作用、ものごとの価値を本質から実質へ、骨や魂から肉や皮へと置き換える機能において最も重要な役割を果たしたのが広告だ。



現在のように、インターネット上の声が火種となってテレビCMのような大規模広告にさえ影響を与えるようになったのはせいぜい2010年代からの話で、それ以前は「よろしくない何か」が誰の目にも触れるところで宣伝されている状態が普通だった。

今では不可能になった広告のひとつに、たとえばこんな「頭痛薬」のCMが挙げられるだろう。内容はこうだ。

幼い子供がいるキャリアウーマン。明日は重要なプレゼン。頭に手を当て違和感に気付く。風邪のひき始めだ。だがチャンスを逃すと次はない。帰宅するとママ、頑張ってね、と手作りの何かを渡される。自社商品のメタファーだ。結局、笑顔で元気に出社している彼女。コピーが踊る、辛くても頑張るあなたに。XX頭痛薬。

「辛くても頑張らなければならない」ことを想起させる広告は現在では好ましくないとされる。実際には頭痛薬は「辛くても頑張らないければならない」ことを促進する、あるいは主張する存在ではなく、ただ辛くても頑張らなければならない現状を反映する存在に過ぎないのだが、ともかく2010年代以降のブラック企業・精神論叩きの流れにしたがってこういった表現―――辛い現実を想起させるもの―――は不可能になったわけである。

そしてその後どうなったか?

現実は一切変わらない、そればかりか労働環境は過酷になる一方で、疲労やストレスを麻痺させる手段はますます歓迎されているにも関わらず、広告は「頑張らなくていい」と真逆のことを言い始めたのだった。

このことは少なくとも僕には象徴的だった。つまり広告は、人に対して言葉を介して何かを主張しているのではなく、何かを主張しているふうを装うことによって人に商品を印象づけるのが最終目的であり、そのためには言っていることが真逆になっても全く問題はないのである。

そこで、広告に対してよくあるひとつの批判は不可能になる、「広告は嘘をついている」と。なぜなら広告は全く嘘をついていない、広告が言葉を介して表現しているものは言葉の形を取った別の何かであり、その意味や真偽について批評するのはそもそも見当違いなのである。

一見すると「頑張らなくていい」は「頑張れ」よりもやさしい言葉に思えるが、実態をいえばそちらのほうがよほど残酷だ。広告が人に頑張らなくていいと言えるのは、頑張らなかった結果どうなろうと知ったことではない、つまりどうでもいいということを言い換えているに過ぎないのだから。

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