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宿命論としての無意識

ニュートンが万有引力、たとえば地球と月のように離れた物体同士が干渉し合う力を発見したとき、デカルト派はその遠隔作用の力を「オカルトフォース」と批判した。少なくともその時までは近接作用説、つまり「直接的に接触していないものが影響し得るはずがない」という考え方のほうが合理的に思われていたからだ。しかし、数百年後の世界から見ればデカルトの唱えた「渦動説」―――天体はエーテルと呼ばれる流体が押し動かしているという考え―――の方がよほど「オカルトフォース」らしく聞こえるかもしれない。このことは「合理的(あるいは科学的)」というのは常に、「私たちが既に知っていること、見えているものの働きから想像・納得しやすい」という願望に沿った観念でしかないことを意識させる。

精神分析の分野でフロイトが「見えない力」たる無意識に着目したのはごく最近の19世紀のことで、無意識分野の開拓はそれまで人間が意識上で処理していた問題(たとえば善悪や損得)では説明できない不合理な行動規範を探るうえで重要な役割を果たしたといえる。人間たちが自分自身を熟知し、コントロールしていると自負する一方で実際にはどれほど無意識のほうが優位に立ち、人間を支配し弄んでいるかについて知られるようになったのもこれ以降のことである。もっとも、東洋哲学にとってこの無意識(私ではない私)の存在は目新しいものではない。仏教の唯識論では人間の意識と五感(前五識)の土台に常に自我に執着し続ける無意識としての末那識(まなしき)、潜在意識の一種があり、さらにそれを包むように全世界や事象の根源としての阿頼耶識(あらやしき)がある。唯識論では意識の土台は外界との区別がないのである。



かつて、科学は「神の偶然にたよらない」という信仰、世界は法則により決定されているという信念によって動かされていた。しかし、その後、現代科学は方向転換し、世界の非決定性、偶然の巨大な役割、秩序や均衡の例外性を認めるに至った。
(『リキッド・モダニティ―液状化する社会』ジークムント・バウマン )



しかし、場合によっては「科学的」とも表現される合理性への執着は合理そのものが破綻しても亡霊のように残り続けるもので、それは量子論が「神がサイコロを振っている」ことを明らかにしても、「精巧な機械」としての自然観が衰えなかったことからも読み取れる。人間は真実に対して常に「目に見えているもの、知っているもので説明できる何かであってほしい」という願望を持っているからだ。

精神分析における不合理な無意識は、たとえば幼児期の虐待のような深層に追いやられた心的外傷によって種々の精神症状が現れることを説明可能にする。しかし前回説明したように、この一種の精神性に対する物理学的な帰結は”人はありのままの個性を持っている”という神秘主義的な人間肯定の態度に反するために、カウンセリングはもっと不可知論的な解決法―――たとえば愛の素晴らしいとか、人間に眠っている素晴らしい素質だとか―――に置き換えられることになる。

同時に、「不合理な無意識の欲動」は依然として意識できないもの、つまり見えない力であるために「オカルトフォース」としての側面も持っている。「両親との関係性の歪みを他者に投影して異常な行動を起こす」という遠隔操作的な力学は、リアリストにとっては宇宙の電波で思考が害されるのと同じくらい眉唾の話だと言える。早い話が、精神分析ははじめから、ロマンティストにとってもリアリストにとっても受け入れにくい性質のものなのだ。

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