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「毒親」の憎み方:反パターナリズムの落とし穴

親の無償の愛は崇高のものであり、それなしで人が幸せになることはできないという家族愛至上主義の対極には、親の悪影響こそがすべての苦しみの根源であり、自分の不幸を説明するものもこれをおいて他にないという考え方がある。

実のところ、このふたつの考え方は、おなじ天秤の両椀のようにひとつの観念のうえに成り立っている―――それは親は偉大で万能であり、子どもを幸せにするのも不幸にするのも親でしかあり得ないという観念である。


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△不安や不幸を説明できることも、万能の存在のメリット



理想化ー脱価値化という概念を取り入れると、この観念を説明する図は上のようなものである。「親は万能である」という前提は、一方では「万能な親の保護下におかれている私は幸福である」という安心感をもたらす。もう一方でその親の保護が切れたり、保護責任が果たされていないと感じたとき、不安の原因は「万能であるはずの親」に着せられるので、こんどはかえって親こそが不幸の原因であるというふうに糾弾(脱価値化)される側に置かれる。

この理想化ー脱価値化(クラインの対象関係論における、分裂ポジション)は、ひとつの価値判断の尺度であり、理想化(過剰な期待)をする人は脱価値化(落胆)もするということになる。したがって、同じ対象を理想化(対象は欠点がない)している人と、脱価値化(対象には欠点しかない)している人は、本質的にはあまり変わりがないともいえる。



わたしは親のせいで不幸だ


人間の自我意識の原点には、母親に保護されていたころの「万能な自分」が存在しているといわれる。子どもは、この母親の保護と一体になっている自分に対して覚えた「万能感」と「安心」の味をおぼえ、やがて自我が母親から分離したあとも「親は万能であり、その親に保護されている自分は安心である」というふうに内容を変えて再現が試みられる。

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