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“延期された生“のファンタジー

人間の獲得できる喜びに永遠的なものはない。いや、もし永遠的な喜びがあるとすれば、それを享受できない人間の生命はますます悲惨なものになるだろう。だからこそ古人は、圧倒的なものに直面するたびに己の哀れさのほうを発見したのだ。

生は腐敗する。生的な喜びは、腐敗する生の上で失われるときを待っている。あらゆる喜びの、この不完全さに直面するとき、死と禁欲が途端に魅力的なものになる。つまり、生の喜びを可能な限り回避し、どこまでも希薄なものにするほど、僕たちは死の衝撃を和らげることができるのだ。

したがって、僕たちの前にはふたつの選択肢が転がっているといえる。不完全な、失われることのあらかじめわかっている生の限られた喜びを享受するか、それとも完全な何かに執着しながら死ぬかだ。



あらゆる生的な欲求に変換不可能なこの<完全な何か>への欲求は、強欲の極致としての禁欲という逆説的な形式で発現される。ノーマン・ブラウンは、資本主義の力学は「”常に延期されている未来”に到る快楽の延期」だと表現する。

資本主義的な現代人の生を最もよく表現しているのは「倹約な投資家」という人格だ。彼らは消費すること、すなわち金銭という「腐敗しない価値」を何らかの有機的で主観的な価値に変換することを「延期」し、そのぶんを追加生産の手段に「自己投資」する。この過程は名目上、現在の消費を断念することによって将来のより大きな消費を可能にするという(フロイトのいう現実原則の)大義名分を持っている。

しかし、実際にはこの欲動と延期の主従関係は逆転している。つまり、より大きな欲動の実現のために現在の欲動を断念するという”現実原則”とは反対に、延期そのものを目的として”現実原則”が援用されるのが資本主義の原理にあたる。

この自己目的化した「延期」を図にすると以下のようなものとなる。



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現実原則でのお約束は、延期された満足がより大きな満足となってのちに実現される筋書きにある。現在の生Aにおいて「断念」された欲動は、いつかおとずれる未来の生A’でより大きな満足をもたらすはずだ。

しかし、資本主義における「投資」の概念においては、現在の生Aにおける欲動が断念されることは未来のために呑まなければならないデメリットではなく、それ自体が自己目的化しているーーーつまり、約束されている未来の生A’が存在している限り、現在の生A’における消費や選択はどこまでも延期することができる。

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