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「できない」と信じ込ませられること―劣等感の遺伝

精神的に自立していない親、劣等感を植えつけられてそのまま育った親は、劣等感を植えつけ、自立を阻害し、自分から離れないようにコントロールするというにせものの愛情を他者や、やがてはわが子に対して反復して与える。

無力な子どもに対して劣等感を植えつけ、自由な身体表現や自我の発露を妨害するという残虐な行為を平然と行えるのは、ひとつにはそのかつて自分が受けてきた虐待行為を自分自身が愛情であると信じているからである。前回触れたような、自分が抱えている劣等感ゆえに、愛する対象が自立してしまえば対等でなくなり、自分が見離されてしまうという不安もこの理由のひとつとして考えられるだろう。

嫉妬や恐怖もこの理由のひとつに挙げられる。精神分析では親子のような密接な関係にも嫉妬のような我欲が介在していると考えるが、自らの人生や感情表現を破壊されたと考えている親は、子がやがて自立し、自分の人生を構築しようとするさまに嫉妬を催し、妨害に回ることも珍しくない。この復讐の怒りは、自らの欲動への禁止感情が火種になって矛先を求めるが、その本来の対象である自分のかつての保護者へと向かわず、それが転移した子どもや別の他者へと向かう。

恐怖への同一化もこのような行動の根拠のひとつとして数えられるかもしれない。恐怖への防衛機制のひとつとして、「怖いもの」に同化し、同じような外形、規範として振る舞うことで自らの恐怖を打ち消そうとする精神の性質がある。わが子への嫉妬で「こわい親」に変貌するという親像という抑圧された恐怖が、自分が親で相手が子どもであるという逆の立場で再演される。このとき、自らがかつての恐怖の対象そのものになり変わることで、無力な子ども時代を「克服」する。



植えつけられる劣等感は能力や行動、自己認識、意志などに様々な影響を及ぼす。

唯物論的な考え方では、人間の能力はその人に内在しているもので「できない」と言われてできなくなったり、「できる」と言われてできるようになるということは信じがたい。しかし心理学では「できない」と思い込ませることがいかに簡単であるかが証明される。

たとえば、偏見(レッテル)に関してはこういった実験結果がある。ちょっとしたパターゴルフのテストを、白人と黒人の混じった子どもたちに、あるグループでは「身体能力のテストである」と伝え、別のグループでは「問題解決(知的)能力」のテストであると伝える。すると、身体能力のテストであると伝えられたグループでは黒人の、知的能力のテストであると伝えられたグループでは白人の成績が優れた結果になったという。

このテストは、社会的な既に植えつけられているレッテル(黒人は体力が、白人は知力が相対的に優れている)を炙り出すためのものだったが、心理学的には「できる」ということになっている前提、「できない」ということになっている前提が同じ行為の結果に対して有意な差を生むことを示している。フェミニズムでも同様に、試験や社会活動、権利意識に対して心理的な抑圧が働いていることが前提になる。問題は、結果として現れているものではなく「できないことになっている」のような前提が既に結果を左右しているという自作自演の構造なのである。

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