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「傷つかない心」の危うさ



先日、Twitterで上のような発言が流れてきた。かつて悪口や批判に対して「相手にしなければ影響はない」「気にするのは他人に人生をコントロールされることだ」と表明していたメンタリストDaiGoさんが誹謗中傷に対する徹底抗戦の構えを見せたという、言ってみれば180°の方向転換について指摘するものだ。

「心の強さ」という概念に関しては私たちはまだ知らない部分が多いらしく、一定の持論や自負のある人がその「強さ」の秘訣についてレクチャーを試みたあとに何らかの方向転換を迫られるという事態は存外よく起こる。たとえば「死ぬこと以外かすり傷」という勇ましいタイトルの著者である箕輪厚介氏がハラスメントに関する告発を受けてTwitter上に「死にたい」と正反対の言葉を残したのはごく5月末の出来事である。こういった出来事を外部から経験した私たちは「どうやら心の傷はそう軽視できるものではないらしい」という事実を受け取るほかない。



心理学の知見からやや外れた特権的な地位にある自己啓発分野では、「一瞬で心が軽くなる魔法の言葉」とか「些細なことで傷つかなくなる思考法」のような頼もしいタイトルの心理本が量産される。そして、読者としても是非ともそういった「強い心」を手に入れたいと考えるのでこのような本はよく売れるらしい。こういった潮流からイメージされる「心の強さ」は針を通さない分厚い皮膚のような無神経さとか鋼のように丈夫な精神、つまり「傷つかない心」という人間離れした状態をゴールに据えたものである。

しかし、こういった極端にポジティヴな自己啓発はしばしば「悪い反動」の引き金になる。たとえば自己啓発本やセミナーでは「悪い言葉を使うな」「常に良い言葉で気持ちを表現せよ」ということが頻繁に言われる。そして、読者や受講者がそれを素直に取り入れて「悪い言葉を使わないように」気をつけて暮らしたところ、なぜか心は余計に辛く、苦しいものになってしまうということが起こる。自己啓発的な心理学にはこのような形で、精神的に「普通より弱い」人がいきなり無敵になろうとするという無謀な試みに加担してしまう向きがある。(極端な例では、大量の自己啓発本を本棚に残して自殺する人たちがいる。)

この問題はつまるところ、自己啓発的な文脈で「ポジティヴ」=「心が明るい、強い」というイメージを心の「暗い部分、悪い部分」を除外することで実現しようという無理な構造にある。心の問題は物質のように実体を持たないので、「気にしないようにしなければ気にならない」とか、「無視していればそのうち消えてなくなる」というのは浅はかな考えで、意識から除外された精神的な傷は消えず、ただ別のもっと複雑な形で表出する―――それは病的な表現であったり、身体的な症状であったりもする。



ついで、患者のはっきりした言明によって明らかなことは、患者の意思的な努力つまり防衛の試みである。私の理論はこの点を重視しているが、少なくとも一連の症例では、意志的な努力がその意図するところを達したと思われたのちに恐怖症や強迫観念がはじめて現れたことを、患者自身が解明している。「私には昔ほんとに嫌なことがあって、私はそれを押しのけて二度と考えまいとつとめ、やっとうまくいったが、それからというもの他のことにとりつかれ、こんどはそれからのがれられなくなった」こう語って、ある女の患者は、私がここに展開した理論の重要な点を保証してくれた。(フロイト著作集6)



心の傷を軽減ないし無視しようという個人の努力と同様に、「傷つかない方法」「無敵の精神」を模索する自己啓発もまた「それを押しのけて二度と考えまいとつとめ、やっとうまくいったが、それからというもの他のことにとりつかれ…」というふうに新たな問題に帰結したとしても不思議ではない。むしろ、傷は意識的過程を経て健全に消化されるべきであり、「うまく気にしないようにする」ことに成功しまえばしまうほど、問題はもっと複雑な、無意識的な過程に預けられてしまうリスクがある。

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