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「私がモテないのではなく、恋愛が流行ってない」という可能性

せっかくのクリスマスなので恋愛の話をしてみよう。

「普通」の人は誰でも―――生殖をゴールとした異性愛としての―――恋愛、結婚をするものだという価値観は、文化・社会的な環境の変化によって実質的にそれが「普通」でなくなってからも根強い。

そして、この前時代的な価値観は、満足のいく恋愛状態にない場合、当然のことながら「普通」の人なら誰でもできることを自分はできていない、という劣等感を伴うことになるので、結果的には自らを追い込み呪うものに他ならない。

であれば、このような「普通」という概念は崩しておくのに越したことはないという話になるが、一方でこの「普通の恋愛」への信念は長い間自我の安定の役に立ってきたもので、おいそれと捨てるわけにはいかないものであることも確かだ。

しかし、それでも断言できることがあるとすれば、「普通の恋愛」なるものがあるとすれば、それができないからといって傷つくような時代はとっくに終わっているし、またこれから先にはもっとその「普通」があり得ないものになっていく、ということだろう。

今回は、その以前の「普通の恋愛」のうちの「普通」の中核を担ってきた要素がいかにして不可能になっていったかについて、四つの視点から改めて追ってみたい。



性的禁止の緩和


他の動物と比較したとき、人間の性的本能について際立った特徴はまずそれが自然には性器性欲(生殖)に向かわず、様々な文化で補われ、強制されてはじめて存続し得るものだったということである。これは言い換えれば、人間はもともと倒錯的で、放っておけば恋愛(それも生殖へ向かう異性愛)などしないので、悪戦苦闘の末にその方向へ軌道修正するために形成されたのが、さまざまな性的幻想や恋愛ー結婚にまつわる文化なのだ。

その代表例は宗教的な禁欲である。たとえば、敬虔なカトリックは「生殖の目的ではない性行為を禁止」される。世界的にも、婚前交渉や避妊、享楽としての性を禁止する文化が形成されることは珍しくなく、これは身も蓋もない言い方をすれば生殖に接続しない性行為は生殖の必然性をあまりに薄れさせるからである。

また極端な例を言えば、女性は公共の場<婚外の男性>に対して全身の皮膚を衣服で覆い隠し、雑談も交わしてはいけないといった塩梅で「異性との接触を禁止」する文化もあるが、これも最終的には異性性を<結婚ー生殖を前提とした異性>に隔離し、いわば男女の間に断崖を築くことで互いを求めるように誘導する工夫の一種だと考えられる。<異性と会話するのはふしだら>だが<生殖はふしだらではない>という矛盾は、文化が「結婚」を性の純化のプロセスとして要求するためである。



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リベラル的な文法にのっとって書けば、「男らしさ」「女らしさ」というのもこの一種であり、男はこういうものである(力強く、弱音を吐かない)とか、女はこういうものである(従順に振る舞って一切の家事をする)というジェンダーバイアスは、男女をたがいに不完全な状態に固定することで「異性なし」では生きていけない状態にし、異性愛に帰結する努力であり、これらが緩和されることに対して必然的に抵抗が生まれるのはむしろ異性愛をゴールとする性的本能が全く信頼されていない事実の裏返しに他ならない。(詳しくは「 恋愛はなぜ廃れるのか 」で述べているため割愛。)

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