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欠点を認めないことは”優しさ”ではない

父は私を愛してました。私も愛されていると感じてました。
だから父はアルコホリックではありません
(「私は親のようにならない」、クラウディア・ブラック)



破綻した家庭では、アルコールなどの依存、暴力や脅し、ハラスメントといった異常行動に対してまず他の家族の否認が働く。こういった異常状態に対して家族は、役割を分担して機械的に対応し、秩序の回復を図り、自体が収まった頃には「何事もなかったかのように」振る舞うことで幸福で正常な家庭という外面を保とうとする。家族ひとりの汚点は、家族全体の連帯責任によって隠蔽され、外部には漏れず、また家庭内でもこういった問題が取り沙汰されることはない。それは家族全体にとって、なかったことにしたい、そしてないものと信じたい公然の秘密であり恥である。このことについて触れるのは、家族がもはや機能不全に陥っているという事実に屈服することを意味する。

家族がひとつの否認という共犯関係を結ぶなかでそれぞれが役割を持つことは、子どもに関しても例外ではない。子どもは過酷な家庭環境で、親の感情や行動に対して責任を持つ役割を覚え、親をなだめすかし、事態の収拾を図り、生きながらえようとする。この役割は無力な子どもにとっての唯一の自己保存法則であり、大人になっても人格の深い部分に刻まれたままとなる。



前提1:親が子を愛する方法は、今後一生その子が他人を愛する方法の原型になる。そしてその愛し方は自分自身にも当てはめられる。



家族の中で、あたかも健全な関係と、正常な秩序が保たれているという”演技”が日常化することは、家族から離れた他者との関係性においても否認が働く理由になる。現実的な人間関係では、人はだれでも欠点を含むということが認められており、欠点を欠点として認めることによってはじめてある人間の全体としての存在が受け容れられたことになる。

一方で、「正常さ・保たれている秩序の演技」という欺瞞の中で育った子どもは、他人の欠点に対してあたかもそれが存在しないかのように振る舞い、あなたと私の関係はそれゆえに”正常”であると演技することが関係性の基本となる。この他者との関係形成は、対象関係理論で言われる分裂ポジションと呼ばれる状態にたとえられる。分裂した他者への印象は、愛着の対象となる理想化された側面と、憎悪や攻撃的感情の対象となる脱価値化(相手は取るに足らない存在である)された側面にそれぞれ分けて保管される。ふだん、愛着の対象は否認された悪い部分を含まない範囲が全体として扱われているが、一方で相手の欠点―――できないこと、未熟な部分、悪意や冷淡な側面―――への印象もそれとは別に蓄積されている。この蓄積された部分は否認され、触れられないように管理されているだけで、許容されずに存在しているため、相手に対する不満が積もりに積もった契機にあらゆる過去と紐付けられ、洗いざらい暴露されることになる。

このような分裂した他者との関係では、相手の欠点を「見ないふり」することが愛情の条件だといえる。相手が欠点を含む存在であると認めることは、理想化された対象の喪失を意味し、相手が完璧に脱価値化された対象として唾棄される契機となる。このため、愛着を分裂によって管理している人は相手が欠点を含まない存在であると欺瞞すること、すなわち相手の欠点を隠蔽することを愛情保存のために選択してしまう。



相手の存在全体を愛するということは、相手の悪いところ―――できないこと、悪癖や成長を要する未熟な点―――を含めた全体を現実の相手として容認することであり、その条件として欠点を容認することは不可欠である。

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